『っ…道士さまぁ…っ…!』
雨はまだ降り続いている。
申公豹が助けた少女は、声を嗄らして叫んでいた。
辺りは薄暗く、雨で視界も悪い。
それでも少女の目にははっきりと見えていた。
痛いほどに映える、白と赤のコントラスト。
申公豹の腹部からの出血が、白い服と地面にじわじわと染み込んでいた。
「…ぅ…ぁ」
痛いなんてもんじゃない。それすら凌駕してただ燃えるように熱い。
とりあえず突き刺さっている石を抜いて、そしたらバカみたいに溢れるだろう血を止めないと。
と、申公豹は朦朧とする意識の中で手を動かした。
治癒術は得意じゃない。
というより、慣れていない。全くといっていいほど使う機会がなかったからだ。
しかしこの状況でそんなことも言ってられなかった。
「っ…、く…」
こんな状況なのに嫌に冷静だ。
ずるりと抜いた石を捨てて、申公豹は渾身の力を込めて傷口に術をかけた。
出血がなかなか止まらない。
汗と涙が生理的に溢れる。けれどこの雨ではどちらも判別がつかなかった。
…よくよく考えれば。体力の消耗は激しいが自分は空間転移ができたのだ。
あんな苦労して岩肌をくだらなくても、一瞬で少女の元に行けたし、助けることができたのに。
黒点虎がいないことに焦って、上手く頭が回らなくて、…挙句このザマだ。
最強の肩書きを持っているにしては、あまりにも不甲斐ない今の自分を、申公豹は嗤った。
「は……」
出血は何とか治まった。しかし傷そのものが治ったわけではない。
『道士さまぁっ…死んじゃやだよぉ…っ……』
泣き叫んで、自分を心配している少女に申公豹は手を上げて大丈夫だと応えようとした。
しかし治癒術を解いた瞬間、体力が限界をこえ視界が揺らぐ。
傾いだ申公豹の体はそのまま倒れ、ばしゃりと音を立てて地面についた。
少女が無力さを嘆いてひたすら溝の底に向かって叫び続ける。
…その身を切るような声を上空で聞いた道士が、一人いた。
********
「だぁあっ、もー何なのだあやつは!自分で約束を取り付けておいて来ぬとはどーいうことだっ!!」
文句の一つや二つや三つや四つ、言わねば気が済まない、と太公望は雨の中を申公豹の家に向かって飛んでいた。
この大雨の中わざわざ文句を言うためだけに飛んでいるのである、相当頭に来ているのだろう。
「ご主人ー…そんな怒っちゃダメっすよ、申公豹さまにも何か事情があるかも知れないじゃないっすか。」
「いーや、ない!絶対ない!「あれ、そんな約束ありましたっけ?」と冗談抜きで言うに決まっておる!」
「いたたっ、ご主人落ち着いてくださいっす!」
バコバコと四不象に怒りをぶつける太公望を宥めながら、四不象は空を飛ぶ。
「よいか、わしは6時間も待ったのだぞ!?仙人の時間ならそんなぐらいなんともないかとも思うかも知れぬが
何にも無い所で待ちぼうけは我慢の限界だっ」
「まぁそりゃそうっすけど…でもおかしいっすよね、申公豹さまが時間に遅れるなんて事一度もなかったのに。」
「だーかーらー忘れておるに決まっておるのだっ――…と」
ぐー…
怒りすぎてお腹がすいたのか、太公望のお腹が音を立てた。
申公豹に会ったら何か食べ物(主に桃)をふんだくってやる、と太公望は決意した。
他には何を請求してやろうかと思案していると、四不象が、ん?と声を上げた。
「どうかしたか、スープー。」
「ご主人、なんか女の子の声がしないっすか?」
「…女の子ぉ?」
こんな雨の中、しかも何もない野原をそもそも人間が歩いているのかと不審に思いながらも太公望は耳をそばだてた。
すると、微かだが確かに声がする。
「ね?聴こえるっすよね?」
「ふむ…確かに。スープー、探すぞ。」
「はいっす!」
高度をぐんと下げて、太公望は声を頼りに目を凝らす。
泣き叫ぶような女の子の声。
なかなか姿が確認できない。
何回も旋回していると、大樹の近くに一人の女の子がしゃがみ込んでいるのが目に入った。
「スープー、いたぞ!」
四不象が全速力で駆け寄る。
四不象から飛び降りた太公望が後ろから声をかけると、少女は吃驚して息を呑んだ。
振り向いて太公望を見つめる少女の顔は、血の気が引いて青白い。
「驚かせてすまぬ…、それよりどうした?何か――
「助けてっ!!」
太公望が言い終わらないうちに、女の子は太公望の足に縋りついた。
叫んで掠れた声が、息も絶え絶えに言う。
「下にっ…落ち…ッたすけ……血が………」
少女は相当混乱している。
太公望は縋り付く少女のか細い手を取って、その手をぎゅぅと握り締めた。
「落ち着け。…この中に誰かが落ちたのだな?」
こくこく、と女の子が首を縦に振ると、涙がはらはらと舞った。
急いで太公望が溝の中を覗きこむ。
「なっ……」
見慣れた姿に、息を呑んだ。
忘れるはずもない、白金の髪を持つ、白い――――
「――申公豹…ッ!?」
今から会いに行くはずの、張本人がそこにいた。
倒れている申公豹はぴくりとも動かない。
見るだけでも痛々しい、多量の赤に服が染め上げられていて、太公望は四不象と共に慌てて溝の底まで降りた。
雨と血と泥に汚れた身体を抱き起こす。
「おいっ、しっかりせぬか!」
青白い頬を小さく叩く。
小さなうめき声と同時に、薄く目が開かれた。
いつもはたじろぐ程に意志の強い瞳の色が、今は弱々しい。
「…ぃ、こ…ぼぅ?…」
群青の瞳がゆっくりと太公望を捉えた。
息は吐息のようにか細い。
太公望は腹部の傷に目をやった。
服が真っ赤に染まっていたのでどんな出血かと思ったのだが、それは嘘のように止まっている。
だが酷い怪我であることは間違いなくて、傷を直視する気にはなれなかった。
「…あぁ、そ…ぃえば…約束、してましたっ、け…?すっかり…忘れ……」
「ばかっ喋るな!そんなことはこの際どうでもよいから早く手当てを――」
そこまで喋って、太公望はふと思った。
いつも、ぴったり寄り添っているあのひょうきんな霊獣が、どこにも見当たらない。
主人がこんなことになって助けを求めに行ったのだとしても、あの霊獣が申公豹を放置していくとは考えがたい。
「…おぬし、霊獣はどうした?」
太公望が申公豹の傷に布を当てながら問う。
申公豹の眉が、少し下がる。
「ふふ……愛想を、つかさ…れて…しまいました……」
大粒の雨の中そう呟いた申公豹は、太公望が今まで見た中で、一番寂しそうに微笑んだ。
*********
「――点虎、黒点虎。」
「んー…?」
体を揺り起こされて、ボクは欠伸をしながら目を開けた。
どうやら座り込んで窓を眺めているうちに眠ってしまっていたようだ。
「って、うわっ!!」
「…うわってなんだい。ヒドいなぁ…」
突然飛び込んできた浅葱色と金色に吃驚して声を上げた。
こうも驚いてしまったのは、白金と群青が飛び込んでくるはずだと頭のどこかで思っていたからだろう。
あー…そうだ。なんだか太公望のことを楽しそうに話す申公豹が嫌になって、家を飛び出してきちゃったんだ、ボクは。
「それより、君なんで1人なの?申公豹は?」
「え。…えーっと……」
言いたいような言いたくないような…と目を泳がせていると、ボクはふと気付いた。
なんか…老君、焦ってる…?
口調もいつもどおり、眠そうな顔もいつもどおり。それなのに何故か、焦っているような印象を受けるのだ。
「…今日は、別行動、なんだよね。」
「別行動…?…。…あのさ、千里眼で申公豹の様子見て欲しいんだ。」
別行動、に怪訝そうな顔をした老君はボクにそう願い出た。
でも…やっぱりボクはまだ申公豹の様子、見たくない。
本当は、千里眼を開いて、申公豹がボクのこと探してくれていたら、どんなに嬉しいだろう。
けれどその逆だったらと思うと、それこそボクは、ボクの存在理由を見失う。
大げさかもしれないけれど。
自分から反抗して出てきたのに。
これじゃぁ申公豹を試してるみたいじゃないか。最低だ。
「…たくない。」
「ん?」
「見たくない。見たくないんだ今は。」
「…どうして?」
「とにかくっ…!!今は…嫌なんだよ……」
声を荒げたボクに、老君は驚いたのか眠そうな目を少し見張っている。
老君に反抗したことってあんまり無いから、怒られるかと思ったけれど降ってきたのは怒声ではなく優しい手だった。
額の黒点をくしゃりと撫でられる。
「…嫌ならいいよ、無理強いはしないから。」
「うん…。」
「黒点虎。何かあったかは聞かないけれど、これだけは覚えておいて。」
「…?」
「あの子は、君が思っているよりもずっと、君の事を大切に思っているはずだよ。」
ボクに視線を合わせるようにしゃがみ込んで、にこりと微笑いながら老君はそう言った。
その言葉が胸の空いた隙間にぴたりと収まってしまって、どうしようもなくて。
泣きそうになった。
老君はボクが一人でここに来た理由、知ってるのかな…
じわりと涙が滲む顔を見られたくなくて、下を向いた。
老君はそうしているボクをずっと撫でていてくれた。
その間に、老君は横目で窓の外を見て小さく呟く。
「…なんか…嫌な予感するんだよね…。」
窓を叩く雨音にかき消されて、その呟きがボクに聞こえることは無かった。
************
「スープー!全速力で太上老君のところまで頼む!」
申公豹を胸に抱え、太公望は四不象に飛び乗った。
申公豹の群青の瞳は閉ざされている。
先ほど黒点虎がいない理由を話した後、また意識を飛ばしてしまったのだ。
「太上老君さまの所っすか…?薬なら雲中子さまのほうが…」
「気を失う前にこやつが老子のところに行きたい、と言っておった。そこに黒点虎もいるのだろうよ。
…そこら中血だらけで肝を冷やしたが、傷を見ると出血も治まっている、太上老君とて薬の知識には長けておろう。
何とかしてくれるはずだ。」
「了解っす。」
ふありと四不象が飛び上がる。
風を切る音を聞きながら太公望はぐったりと己に寄りかかっている申公豹に添えた手に力を込めた。
(しかし恐ろしいやつよ、この重症の中、おそらくは術によって出血を止めるとは。莫大な精神力を使うだろうに。
やはり最強の名は伊達ではないのぅ…。)
この華奢で小柄な身体にどれだけの力を抱え込んでいるというのか。
畏怖の念と共に申公豹を抱きながら、太公望は雨に覆われた彼方の空を見据えた。
太上老君の寝床がどうしようもなく遠くに思えた。
「そういえばご主人、あの女の子はどうしたんっすか?」
「ああ…どうやらあの近くの農村の娘だったらしくてな。後はわしが責任を持って預かるからと言って帰らせた。」
「そんなんで納得したんすか…?」
「…しておらんだろうな。しかし付いて来ても迷惑だと悟ったのだろう。…スープーはどうみても2人乗りが限界に見えるしのぅ。」
「…。否定はしないっす。」
「絶対助けて、とそう言われたよ。この道士さまは命の恩人だから、とな。」
もちろん助けるっす!と気合を入れた四不象は、今一度空を飛ぶ速度を上げた。
雨粒が顔に当たって少し痛い。
頭からずぶ濡れの所為で太公望の体温は低下している。
もとより高くない申公豹の体温はさらに低くなっていて、二人の身体は触れ合っているのに何の熱も生みださない。
大丈夫だとは分かっていても、太公望にはこの状況がどこか恐ろしくてたまらなかった。
(はやく、目を覚ませ。)
目を閉じて、ぎゅぅ、と申公豹を抱き締めた。
「着いたっす!!」
太公望は閉じていた闇色の瞳を開き、四不象から飛び降りた。
バシャリと地面が音を立て、泥水が服に跳ね返る。
息を切らして太公望が玄関のドアを引くのと、太上老君がドアを開けたのが重なって。
二人は見事に頭をぶつけた。
********
太公望がやってくる少し前。
老君はボクを撫でていた手を止めた。
どうしたの、と上目で見る。
「…誰か来る。」
その言葉にボクは身体を跳ねさせる。
申公豹であってほしいと思った。
申公豹でなければいいと思った。
会ってなんて言えばいい。こんな気持ちをなんて表現すればいい。
あの深くて優しい群青の瞳にボクをどう映せばいい。
祈るような気持ちで老君がドアを開けるのを見つめていた。
老君の意思に反して荒くドアが開いて、外から駆け込んできたのは――
「――ったぁああ!!お、おぬしっ仮にも三大仙人の1人なら避けるとか何とかせぬかっ!?」
「つ…っ…無茶、言わないでよね…」
ゴン、と鈍い音とともに入って来たのは太公望だった。
出会い頭に老君と頭をぶつけて、二人とも痛そうに唸っている。
「何やってんのさ。二人と、も……?」
呆れ顔でそこまで言ったボクは、太公望の抱えているものを見て目を疑った。
見慣れた髪色、見慣れた衣服。それに染み込んでいる大量の赤。
…ボクは怒りに震えて牙を剥いた。
「――ッおまえ申公豹に何をした!?」
今にも噛み付きそうなボクに、太公望が違うだの誤解だのと叫んでいたらしいのだが、頭が煮えたようで上手く理解出来ない。
太公望に飛び掛ろうとしたボクを止めたのは、怖いほどに冷静な、老君の声だった。
「黒点虎、落ち着いて。」
す、と老君の手がボクを制する。
どうして止めるのか、ボクには理解できなかった。
「老君っ!なんでそんなに落ち着いていられるの!?申公豹が…っ」
くるりと老君がボクのほうを振り向く。
「……これが落ち着いているように見える…?」
…ボクはあんなに揺らいだ金色の瞳を、この時までただの一度も見たこともなかった。
差し出された身体を心配そうに受け取って、老君は寝室まで急いだ。
寝かせた申公豹の治療に邪魔な部分の衣服を剥ぎ取って傷を見る。
酷い傷口に眉間を寄せた老君の指示が飛んだ。
「黒点虎は着替えとタオル、太公望はお湯と、そこの棚に入ってる薬と包帯、持ってきて。」
慌ててボクは言われたものを取りにいく。心臓がさっきからうるさくってかなわない。
なんで、どうして、あんな酷い怪我。
こわい、こわいこわいこわい。
血の匂いがこびりついて消えてくれない。
急いで寝室に戻る。太公望もほぼ同時に帰って来た。太公望の霊獣も、いつ入って来たのか部屋の隅でおろおろと様子を見ていた。
キィンと軽い耳鳴りのような音が響く。
傷口に添えられた老君の手が、淡い光を帯びていた。
「…おぬしも術が使えるのか…」
「おや。私が使えなきゃ、誰がこの子に教えるの?」
確かにその通りだ、と太公望が納得している間にも申公豹の傷は塞がれていく。
老君は当たり前のようにやっているけれど、並みの仙人じゃこんな風にはいかない。
仮に治癒術が使えたとしても、だ。
「全く…師弟そろって化け物並みの力じゃのぅ…。おぬしらが崑崙を離れたのも納得じゃ。おぬしらは原始天尊さまの手に余るわい。」
「ちょっと、太公望、老君の気そらさないで。」
「む、悪い…。」
ふ、と光が消えて耳鳴りが止んだ。
老君が一つ、息を吐いた。
「…ふぅ。こんなものかなぁ…。この子が止血してて良かったよ。出血したままだったらヤバかったかも。」
考えたくないけどね、と老君が言った。
治りかけの傷口に薬を塗って、普段は長い袖に隠れて見えない手が包帯を巻いていく。
「最後まで術で治さぬのか?」
「あんまり術で治しすぎるのも良くないんだよ。自然治癒力が衰えるからね。」
「ほぉ。」
はい、出来た。と老君が寝台の傍を立った。
こちらに向いた老君はゆっくり大きく伸びをして、居間に向かって歩き出す。
「このまま看ていたいっていうのもあるんだけど…目を覚ますまではどうしようもないしね。
さて、太公望。事の成り行きを教えて。」
「ああ。」
ボクは一度申公豹の方を振り向いて、二人の後を追った。
本当は離れたくなかったけれど、太公望の話を聞かないわけにもいかなかった。
「そんな…っ」
太公望の話…正確には太公望が見つけたという少女から聞いた話…を聞いて泣きたくなった。
女の子を助けるために大雨の中岩肌を降りた?
しかもその後女の子を連れて登って…岩肌が崩れて…落ちた…?
そんなの。
そんなの…っ
「…クのせいだ…ボクが傍にいたら…ッ…申公豹…あんな怪我しなかった…」
最低だ。
勝手に嫉妬して、飛び出して。
追いかけてくれてるか怖がって。申公豹の様子見ようともしないで。
ひどい傷を負わせてしまった。
「……ボクのせいだ…」
老君も、太公望も、そういうボクに何も言わなかった。
それで良かった。
だってきっと何か言われたら、その言葉に甘えてしまうから。
居間を出て申公豹のいる寝室に向かった。
何も出来ないけれど、傍にいたいと思った。
何も出来ないから、傍にいなきゃ。
「…何か言ってやらんでいいのか?太上老君。」
「…これはあの子達の問題だし、私が茶々入れるのもね。…ねぇ太公望、」
「ん?」
「長い間一緒にいるとさ、言葉で伝えなくたっていいかも、とか思っちゃうんだよね。っていうか喋るのも面倒くさくなる。」
「おぬし極端じゃな…。まぁ後半はどうかと思うが。前半は…あー…そういうもんかのぅ?」
「そういうもんなの。…でもさぁ、それって間違ってるんだよね。確かに長年の勘で相手の考えてることがいくらか分かったりはするよ?
でも、本当に大切なことは、言葉にしないと気持ちがすれ違ったりするんだ。」
「…。…今回の申公豹と黒点虎みたいにか?」
「ふふ、そーゆーこと。だから、二人っきりで話させるのが一番なんだよ、この場合。」
「なるほどのぅ…。…ところで太上老君!」
「なぁに?」
「今回わしはおぬしの可愛い可愛い愛弟子を救う手助けをしてやったわけだが、それに対しての謝礼はどうなるのかのぅ?」
「…。…キミってほんと、しっかりしてるよねぇ…」
外はもうすっかり夜で、寝室は暗い。
雨はまだ降り続いていて、パタパタと窓を叩く音が響いていた。
それに混じって聞こえるのは、申公豹の微かね寝息。
顔色はまだ青白いままだけれど、ここに運び込まれたときよりかは穏やかな顔をしているように思う。
こうやって、ゆっくり寝顔を見るのは久しぶりな気がする。
申公豹はボクよりも遅く眠るし、早く起きているから。
(きれいだなぁ…)
白いシーツに広がっている白金の髪も、同じ色の睫毛も、細い指先も、全部。
こんな綺麗なのに怪我をさせてしまったと思うと本当に後悔してもしきれない。
「ごめん、…申公豹…ごめんなさい…」
なんであんな事思ったんだろう…。
「申公豹はボクのこと便利な道具ぐらいにしか思ってないんじゃないの」なんて。
そんなわけないのに。
申公豹はいつだってボクのことを考えてくれている。
ボクのいない所で他の誰かと話していても、楽しそうにボクにその時話したことを伝えてくれる。
なんで忘れてたんだろう。
申公豹はこれまでただの一度も、ボクの頭を撫でないで、ボクに微笑まないで、眠る日はなかったのに。
こんなにボクを大事にしてくれているのに。
ごめん。
ごめんね、申公豹。
「おねがい、はやく目を覚まして…」
伝えたいことが、いっぱいあるんだ。
「ん……」
朝…?
窓から光が差し込んでいる。昨日の大雨はどこへやら。今日は眩しいぐらいの晴天だった。
(そうだっ、申公豹…)
がばっと頭をあげると、まだ眠ったままの申公豹が目に入った。
…さすがに目を覚ますまでもう少しかかるかなぁ。
がっかりして寝台の淵に顎を埋めると、白い手が見えた。
(あ…)
手の平に、裂傷が一筋。
岩肌を登ったときの細かい傷に紛れているけど、それはボクがつけた傷だ。
罪ほろぼしのつもりでその傷を舐めた。
かさぶたが出来かけのそれはザラザラしている。
感触を確かめるように繰り返し舐めていると、白い手がぴくりと動いた。
ボクは慌てて申公豹の顔を覗きこんだ。
「ぅ、ん…」
「…申公豹?申公豹…っ」
名前を呼ぶと、大きな目がゆっくり開いて、群青の瞳が僕を見た。
薄く開いた唇が、小さく呟く。
「く、ろ…?」
少し掠れた声で押し出された名前は、遠い昔の愛称で。
懐かしくて愛おしくてたまらなかった。
「ああ、よかった…心配したんですよ…?」
どうして…
「よかったです、元気そうで…」
どうしてそんなに優しいの?
申公豹、こんなに酷い怪我をしたのに。
ボクが勝手に出て行って、困らせてしまったのに。
どうしてこんなボクを責めないの?
伸ばされた白い腕が、僕の額に触れて、輪郭を確かめるように撫でていく。
少し低い体温が心地いい。
「くろ…『ボクがいなくても困らないんでしょう』って私に言いましたよね…、
ほら…見てください…おまえがいないと、私こんなにダメなんですよ…?だから、
――私をおいてどこかへ行ってしまわないでください…」
もうダメだ。
嬉しくて、愛おしくて、これ以上なんかなくて。
目の前の主人に抱きついた。
「っ…ごめん、ごめんなさ…ごめんなさいっ…!」
泣きじゃくりながら謝るボクを、申公豹はずっと受け止めて撫でていてくれた。
こんなボクを追いかけて来てくれてありがとう。
もう絶対離れたりしないから。
「だいすきだよ…っ…」
心音が心地よくリズムを刻むのが聞こえる腕の中でそう呟いて、歪む視界の中で申公豹の顔を僕は見た。
目を細めて綺麗に微笑む表情を見て、ボクはもう二度とこの主人を独りにしないと誓った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
長々長々とここまで読んでくださってありがとうございました!
黒申といっていいのか謎なのですが…むしろ黒+申?
視点がごろごろ変わったりして読みにくかったと思うのですが、次回から気をつけます、多分(←
あと、色々べたな展開ですいません(笑)
なんか色々消化されてないところを消化したい…。
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