「太上老君、このお客さんの処方箋…」
  「ん?」
  「…どうかした?なんか…顔赤いよ?」
  「へ…?」
  「まさか風邪ひいたとか言わないよねぇ…。」
  「まっさかぁ。風邪なんてここ数年ひいてな…」


  「熱い。」


  「雲中子?」
  「熱いよ、とっても。熱測った方がいい。」


  額に当てられた掌は、とても冷たく感じた。



   007 一緒にいたい




  「38度2分…。」


  手元の体温計は無情にも平熱以上を示していた。
  太上老君はそれを見て、大きくため息をついた。
  言われてみれば頭も痛いし、体もだるい気がする。
  どうせなら出勤前に気付けば良かったのに、と後悔した。
  時計は今、午後一時を指している。


  「どうだった?」


  ガラガラと扉を開けて、事務所に雲中子が入ってきた。


  「…38度2分。」
  「あーあぁ。早退しなよ。」
  「でも今日18時まで仕事なのに…」
  「そんなに熱あったら体もたないよ。それに、薬買いに来てる客に病気うつしてたら意味なくなっちゃうよ。」


  確かに、雲中子の言うとおりである。
  それにだるい体で仕事をして、万が一にでも処方箋と違う調剤をしたら洒落にならない。


  「わかった…店長に言ってくる…。」
  「うん。…あ。太上老君。」
  「なに?」


  「あの子≠ノ看病でもしてもらったら?じゃ、お大事に〜。」


  にやにやと、雲中子は笑いながら事務所を出て行った。


  あの子≠ニいうのは、太上老君の恋人の申公豹のことである。
  申公豹は日頃から雲中子と太上老君の勤めるこのドラッグストアを活用しているので、それも手伝って雲中子は申公豹のことを良く知っている。
  余計なお世話だ、と思いながらも、太上老君はへそ曲がりな同僚の心遣いに礼を言った。




  数分後。店長に許可ももらって、太上老君は岐路についた。
  足元がふらふらする。
  近いはずの自宅がやたらに遠く感じた。


  「はぁ…。」


  自宅に着いたが扉が重い。
  とりあえず鞄をそこらへんに放って、病院にいく用意を進めた。


  「保険証…はあるけど…あれ?診察券ってどこだ…」


  出だしから躓くなんて、これでは病院へ行っても良い事無しに違いない。








  「だぁあ…なんであんなに人多いかな…。」


  予想は見事に的中し。
  太上老君がもう一度自宅の扉を開けたときのは午後3時を過ぎていた。
  どうやら最近風邪が流行っているらしく、病院は混雑を極めていたのだ。
  胃に悪いと思いながらも昼食抜きで薬を流しこむと、ぱたりとベッドに倒れこんだ。



  ――あの子≠ノ看病でもしてもらったら?



  痛む頭に雲中子の言葉がよぎった。


  「会いたい、なぁ…。」


  布団でくぐもった声はそれでも部屋に響いた。
  部屋が広いだけに、一人なのが身にしみる。
  太上老君は携帯を開いて、待ち受けを見つめた。



  ――私が!あなたが会いに来いと言っても来ないような、薄情者に見えますか!?



  太上老君は、申公豹に少し前に言われた言葉を思い出して、…迷わず通話ボタンを押した。
  あの時はほんと、驚いたけど嬉しかったなぁ、なんて思いながら。












  「夕食…何にしましょうかね…。」


  そのとき、申公豹はスーパーに買い出しに来ていた。
  特価品を見つめながら献立を考えていると、ポケットが震えた。


  「?…老子?」


  着信は太上老君だった。


  「今日はお仕事昼上がりだったんでしょうか…それともまた勤務先から?」


  後者だったら、いいかげん勤務時間に電話をかけるなと注意してやろう、と申公豹は通話ボタンを押した。
  聞こえてきたのは普段と同じ声。
  けれど何処か違和感のある声。


  「どうかしましたか?」
  「あのさ、風邪ひいちゃった。」
  「…風邪ぇ?貴方が?」
  「うわ…ちょっと、私だって風邪ぐらいひくよ?」


  「…わかりました。そこで大人しく待っててください。」
  「え…来てくれるの?」
  「…そのつもりでかけてきたんでしょう?」
  「うん。」


  にこり、と笑顔が浮かびそうな声がして申公豹は呆れた。
  この人、本当にしんどいんですかね?と。


  電話を終えた申公豹は、再び特価品に目を戻したが、手に取ることなく他の売り場に向かった。


  「…今日の夕食、お粥で決まりですね。」














  「ちょ…こんなに酷いなんて聞いてませんよ…!?」


  いつぞやか、半強制的に渡された合鍵で太上老君のマンションまでやってきた申公豹は、ベッドに突っ伏している部屋の主を見て驚いた。


  「…だって言ってないもん。」


  けほ、と咳き込んだ太上老君は、横目で申公豹を見ながら言った。
  本当は体を起こして真正面から向き合いたい抱きつきたいあわよくばキスしたいのだが、体がだるくて起き上がれない。
  症状は先ほどより悪化しているようだった。


  「薬は…?」
  「飲んだ…。」


  申公豹はどうしていいのか分からなくなった。
  いつも余裕顔でのんびりしている太上老君が、今は喋るのもしんどそうで、笑顔も無い。
  こんなに酷いとわかっていたならもっと急いでここに来たのに。
  どうせ微熱ぐらいだろうと高をくくっていた自分を悔やんだ。


  「濡れタオル、もってきます。熱…とらないと。」
  「うん…」


  電話で、明るかったのは空元気だったのだろう。


  「変に遠慮しないでくださいよ…ばか…。」


  タオルを絞りながらそう呟いた申公豹の顔は、泣きそうだった。






  苦しげに寄った眉間を隠すように、申公豹は太上老君の額にタオルを乗せた。


  「冷たすぎませんか?」
  「大丈夫…」


  息は荒く、熱い。
  見ているといたたまれない。
  申公豹は視界に移ったスーパーの袋に気付いて、食欲が出たときの為にお粥を作っておこうと思って
  ベッドの傍を離れようとした。



  「待って。」



  くっ、とシャツの裾が引かれた。
  いつもは力強く申公豹を抱き締める手が、弱々しく生地を掴んでいた。



  「いかないで。」






  空は色を橙に変えていた。
  大きな窓から差し込んだ光が、太上老君の手と申公豹の白いシャツを一瞬染め上げ、またもとの色に戻した。
  

  「もうすぐ、薬が効いて眠くなるから…だからそれまで。ほら、私寝付きいいし…だから、」


  いかないで、ともう一度小さく笑って言う唇に、申公豹は自分の唇を重ねた。
  自分でも何をしたのか分からなかった。



  「あっ」



  申公豹は自分で自分の行動に驚いて、口を手で覆った。
  太上老君は太上老君で、予想外の事態に声が出ない。


  「ち、ちが…っ、その…あなたが普段と違うからっ」
  「うん」
  「だからっ…今のは……」


  そこまで言って、申公豹は口をつぐんだ。
  これ以上言うと逆に墓穴を掘ると思ったからだ。
  赤く染まった顔を隠すように下を向いて、シャツを掴んだままの太上老君の手を握った。


  「ここに…います…。」
  「ありがと…」









  太上老君が眠るまでそう時間はかからなかった。
  握った手をゆっくり解いて、申公豹は静かにキッチンへと向かった。
  そこで冷蔵庫を開け、大きくため息をついた。


  「なんにも…ないじゃないですか。」


  ドリンクが何本か無造作に放り込まれている他には、食べ物らしい食べ物が見当たらない。
  野菜室なんて見事に空だ。
  ガスコンロを見ても汚れ一つ無い。
  使い方が良いわけではない。単に使っていないのだ。


  「材料買ってきて正解です。…鍋があるだけ奇跡ですね。」


  ゴト、と一人用の土鍋を取り出しながら申公豹が呟いた。


  太上老君は、まるで生活力が無い。
  食事といえば外食かインスタントで、たまにふらっと申公豹の所に手料理を食べにやってくる。
  自分で料理をすることなど考えもしないかのように。


  「ほんと、手のかかる子どものような人です…。」


  ぐつぐつと、鍋が音を立てる。
  目を覚ましたら、少しは熱が下がっているだろうか。
  目を覚ましたら、あの笑顔が戻っているだろうか。
  目を覚ましたら。


  そんなことばかり考えてしまって、キリがない。
  だから申公豹は、考えを中断させるようにコンロのつまみをひねって火を消した。











  太上老君は重い瞼を開けた。
  部屋が暗くてよく見えない。
  ただ、手は泣きそうなほどあたたかかった。


  「…気分はどうですか?」


  一番聞きたい声が聴こえて、太上老君は仰向けの体を横に向けた。
  ベッドの縁には、眩しいプラチナが腰掛けていた。


  「申公豹…手、ずっと握っててくれたの?」


  柔く握られた手と申公豹の顔を交互に見ながら太上老君が言った。


  「ず、ずっとじゃありません…そろそろ目が覚めるかと思って、それで…」


  言われた途端に申公豹がぱっと手を離そうとしたので、太上老君はその手をぎゅっと握り返した。
  う、と声を詰まらせた申公豹はそっぽを向いた。


  いつでも離すことは出来たのに、料理を作った後に名残惜しくなってまた握りに来たなんて言えるわけが無かった。




  「…なんかいい匂いがする…。」
  「さっき…お粥作ったんです。」
  「ほんとに?あのキッチンって料理できたんだ。」
  「…あのですねぇ…あなたが使おうとしないだけでしょうが。」
  「まぁね。」


  クスクス、と太上老君が笑った。
  どうやら少しは具合がよくなったらしい。
  それを見て申公豹は安心した。


  「なんか…そんな事聞いたらお腹減ってきたなぁ。」
  「おや、食欲があるんですか?それは良かったです。」


  申公豹は、お粥を盛ったお茶碗とスプーンをお盆に乗せて持ってきた。


  「おいしそー…申公豹ってほんと器用だね。前から家事とか出来たの?」
  「まぁ本格的にするようになったのは一人暮らしをはじめてからですけど…私の家は自分のことは出来るだけ自分でする、
   っていうのがありましたから両親が何かと教えてくれて…。私が大きくなってからは夕食作るのもローテーションでしたし。」
  「へぇ…。私の家と全然違うね。」
  「というと?」
  「よく言えば放任主義ってやつかな。悪く言えばほったらかし。両親どっちも医者だったから、家にはほとんど誰もいないし
   よく机の上に走り書きのメモと食事代が置いてあったよ。家事も…たまったら業者呼んで済ましてたし。」


  喋る合間に、お粥を口に運んでは、太上老君は「おいしい」と言って笑った。
  カーテンで閉め切られた大きな窓の外には、もう闇が広がっている。


  「…だからね。」
  「?」

  かちゃん、と太上老君がスプーンを置いた音が部屋に響いた。



  「だから、こういうの嬉しいんだ。熱が出たら看病してもらって、おいしい料理作ってもらって、ずっと傍にいてもらうの。」



  そういって、太上老君があんまり無邪気に笑うので、申公豹はあっけにとられた。
  それから胸がきゅうと痛んだ。


  (本当にこの人…ほっとけませんね、大人のくせに。)


  申公豹はふぅ、と息をついた。
  最初に電話を受けたときは、お粥を作ったらさっさと寝かせて自宅に帰ろうと思っていたのに、と小さく笑いながら。


  「いいでしょう。」
  「へ…?なにが?」
  「いてあげますよ、傍に。明日の朝まで。」
  「えっ嘘!?」
  「嘘です。」
  「えぇえ…」
  「…というのは嘘です。」
  「ど、どっちなの申公豹ー…?」


  あんまりあたふたする太上老君を見て、申公豹は堪えきれずに声を上げて笑った。
  いつもは自分が振り回されてばかりだから、たまにはこういうのもいい。
  涙目になるほど笑った後、申公豹は歪む視界の中で太上老君の額に触れた。



  掌と額の体温は同じ温度で溶けていった。













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  老子が風邪ひいたらこんな感じ現代パロバージョン。です。
  ちょっと現代パロでの二人の家庭環境なんかも入れてみました。
  両親ともに医者とかあんのかって感じですが、前にテレビで「医者一家」があるのを見たので
  ありでしょう(笑)
  弱々しいしい老子ってのも、たまにはいいもんだと書いてて思いました。


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