雨が降っていた。
どしゃぶりの雨。
019 これは契約
傘を持っていくのを忘れたために、駅から走って帰って来た私は、自宅の前に小さめのダンボール箱が置かれているのを見つけて、
訝しげにそれを覗き込んだ。
「にゃぁ。」
「…。…猫…ですか。」
びしょ濡れのダンボールの中には、これまたびしょ濡れの猫が入っていた。
白い体に、額に黒点が二つある猫。
状況的に見て捨て猫に間違いなかった。
「…なんで人の家の前に捨てますかね…。」
激しく打ち付ける雨に目を瞬かせながらこちらを見上げてくる猫の瞳を覗き込む。
薄い金色の目は「拾ってくれ」とも言わず、「放っておいてくれ」とも言わない。
ただ「お前の好きにしてくれ」とその瞳を向けている。
屈んだ背中に雨が打ち付けてくる。
シャツが張り付いて気持ちが悪い。
髪の毛先からひっきりなしに水滴が零れ落ちてきていた。
…とにかく、今すぐ家の中に入りたい。
しかしこの猫をどうしようか。
悩んでいると、猫がもう一声「にゃぁ」と鳴いた。
猫にその気はないのだろうが、こちらの同情を誘うには十分な鳴き声だった。
「まぁ…雨ですし…今日一日ぐらい宿を提供しましょうかね…。」
ひょい、と濡れた猫を抱き上げると、案の定水が滴った。
どうせ自分も濡れているのだから、と胸に猫を抱く。
猫は暴れる様子もなく、捨てられる前は随分飼い主に可愛がられていたのかもしれない、と思った。
猫一匹分の温かみを胸に抱いて、私はようやく自宅の扉を開けた。
とりあえず、髪だけでも拭くためにタオルを一枚。
そして猫を拭くために、バスタオルを一枚。
以上の二枚を用意している間に、床に降ろした猫はその体を震わせて水を払ったのだろう。
フローリングは水浸しになってしまっていた。
増えた用事にはぁ、とため息を漏らしながら、自分の首にタオルをかけて、バスタオルで猫を拭いてやる。
大人しく、気持ちよさそうにしている猫が可愛くて、思わず微笑んだ。
「…さて、私はお風呂に入ってきますから、ここで大人しくしててくださいね。」
まだ完全とはいえないが、ある程度体の乾いた猫をソファに乗せてそう言うと、返事のつもりなのかどうなのか猫はくぁ、と欠伸をした。
濡れた服を洗濯機に放り込んで、ほかほかと温かいシャワーを浴びる。
体温の下がっていたからだが、だんだん熱を取り戻してきた。
どしゃ降りはどしゃ降りでも、お湯ならこんなにも気持ちいいのに。
そんなことを考えながら体を洗っている間に、さっき拾った猫のことを思った。
両親が自分に買い与えたこの家は、ありがたいことにローンも残っていない。
しかし生活費は自分で稼がないといけないし…バイトの給料を考えるとこれ以上お金のかかることは避けたい。
それにペットがいると家も開けにくくなるし…。
と、ここで。
あの浅葱の髪の薬剤師の家に泊まりに行けなくなるのは困る、と考えてしまった自分に驚いて、焦って頭を横に振った。
(ち、違う…そういうんじゃなくて…っ…りょ…旅行とかに行きにくいんであって…!)
とにかく飼えないから明日家の外に出そう、と無理やり結論付けながらシャワーを浴び終えた私は、
部屋着に着替えて、なんだかいろんな意味で頬の火照ったまま、猫のいるリビングに向かった。
「寝てる…。」
リビングに戻ってみると、拾った猫はソファの上に丸まってすっかり夢の中のようだった。
寝ている猫を見ていると、こっちまで眠くなってくる。
いつもより早めだが、特にやる事も見付からなかったので自分のベッドに潜り込んだ。
リビングに繋がっている扉はとりあえず開けておく。
布団に身を沈めて目を閉じると、いつもの掛け時計の音に混じって猫の寝息が聞こえる気がした。
翌日。
「いいですか、今日から野良猫に転向なさい。残念ながら私の家では飼ってあげられないのです。」
猫に人間の言葉が分かるとは思わないが、とりあえずそう言いつつ猫を自宅の前に放した。
猫はこちらを振り返る様子もなく駆け出していったので、もう帰ってくることもないだろうと安心して私は大学に行った。
のだが…。
「…。…なんでいるんでしょうかねぇ…。」
大学から帰ってみると、もう会うこともなかろうと思っていた猫は、私の家の扉の前で優雅に腰を下ろしていたのだ。
額に黒点が二つ。見間違えるはずもない、昨日の捨て猫だ。
猫は私の姿をその目に捉えると、てけてけと走り寄って来て、その毛並みのよい体を足元にすり寄せてきた。
「猫は人に懐かないと聞いたのですが…。」
警戒心のかけらも持ち合わせていない猫に呆れながら扉の鍵を開ける。
私が家にあがると、猫も同じようにその身を家に上げた。
確かに自分は動物に好かれやすいタイプらしいが、ここまで好かれるとは。
こんなに懐かれたら、捨てられるものも捨てられないではないか。
「にゃぁーお。」
ソファに座った私の足元でじゃれている猫を抱き上げる。
その抱き上げた姿勢のままで猫に言った。
「…しかたないから飼ってあげます。けれど、私だけお前に食事を出したり宿を提供したりでは割に合いません。
代わりにお前は私の暇なときに遊び相手になりなさい、寂しい時に慰めなさいな。」
もちろん冗談だ。
そうやって理由付けをして、この猫を飼うことを正当化させたいだけ。
でもあながち冗談でもないのかもしれない。
昨晩、あのベッドの中で猫の寝息を微かに感じたときに、妙な安心感を抱いてしまったのだから。
この猫なら、遊び相手にも、慰め役にもなってくれそうだ。
「いいですね?」
ぐぐっと猫の顔を目の前まで近づけて確認するようにそう言う。
猫はきょとんとして、その薄い金の目を私に向けた。
さぁ、この猫はこの契約をどう取るのだろう?
言葉の分からぬ猫に反応などないだろうと、さして期待もせずに猫の顔を覗きこんでいると、
猫はその体を一瞬ぐっと伸ばし、確かに私の唇を、そのざらついた舌で舐めた。
「っ…!?」
突然のことに吃驚してしまい、私は抱えた猫を膝の上に落っことしてしまった。
猫は小さく鳴いた後、何事もなかったかのように膝から飛び降りて、部屋の中を散策し始めていた。
ザラザラの舌が舐めた唇に手を触れる。
遠くで猫がこちらを向いて「にゃぁ」と鳴いた。
「契約成立だ。」と言われたような気がした。
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そろそろ出さないとなーと思っていた黒点虎くん。名前はクロで通します。
なにやら人間の言葉が分かってそうですね…。
うーん。
ま、いっか、その設定でいこう(アバウト)
管理人はいかなる時にも老申要素を混ぜ込みますごめんなさい。
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