老子に弟子がいるというのは知っていたけれども、実際に会ったことはなくて、その日老子の前に佇む道化師を見つけたのは本当に偶然だったのだ。
031 あなたしか見えていないわけじゃない
「老子にお客様ですか?」
後ろ姿に声をかけると丁度風が吹いた。
黒いマントが風に揺らいで、振り返った顔に結われた白金の髪が掛かる。
大きな群青色の瞳が髪の間から覗いて、その目に私の顔を映した道化師はほんのわずかに目を細めて微笑んだ。
その笑顔があんまり儚げで美しいものだから、私も思わず目を細めた。
「おや、あなたがもしかして邑姜ですか?老子もずいぶん可愛らしいお嬢さんに手を出したものですね。」
「手っ…!?」
出されてません、養父です!と焦って返すと、彼は冗談ですよと口の端をあげた。
「いきなり失礼でしたね。私の名は申公豹。ここにいる寝太郎の弟子ですよ。」
「え、あ…じゃああなたが、老子の言ってた…。」
かわいくて、かわいくて、たまらない愛弟子。
そう、珍しくとろけそうな笑顔で話していた老子を思い出す。てっきり愛玩動物のような人を想像していた私は面食らった。
だって、かわいいというよりは凛として、孤高な、そんな雰囲気だ。
そんな心の内が分かったのか、彼は小さくため息をついてあきれたような声で言う。
「この人がどんな風に私のことを言っていたのかは知りませんが、あまり信じないことです。たまにわけのわからないことを言いますからね。それと…」
「!」
どがっ、と彼は怠惰スーツに包まれた老子を蹴り上げた。
もちろん外からの衝撃に強いスーツが老子を傷つけることはないとわかっているが、師匠にそんなことをしでかす彼に驚いた。
けれどもっと驚いたのはそのちっぽけな衝撃で老子の体が動いたことだった。
老子が眠りについてから、3年はおろか、まだ半年も経っていないのに。
「狸寝入りもいい加減にしてください。起きているでしょう、さっきから。」
「…あのねぇ、だからって蹴るぅ?」
スーツを緩慢な動作で脱ぎながら、老子が応える。金色の目はまだ眠そうで、大きな欠伸をかみ殺している。
「ああ本当、久しぶりだなぁ…元気?」
「見ての通りですよ。」
「また美人になったね。」
「はぁあ…?あなた本当に脳みそ溶けてるんじゃないですか。一度医者に見せたほうがいいですよ。」
「そんな憐れむような目で見なくても…。」
コントのような、その一連のやり取りを私は夢でも見ているような気分で眺めていた。
老子があんなに親しげに話す人がこの世界にいることが意外でたまらなかった。
何かを超越してしまった存在の養父は、いつもどこか遠い人であったが、今目の前にいる老子は確かにそこに在る、近くにいる存在だった。
ぼんやりとその様子を見ていると、不意に申公豹さまの体が傾いで老子の方に倒れていく。
あ、と思った時にはもう遅く、小さな彼の唇は老子のそれと重なりあっていた。
雪のように白かった頬が、ばっと耳まで朱くなる。
「な、にを!!考えているんですか…ッ!!彼女が見ているでしょうがそこでッ!!」
上擦った大きな声が草原に響いて、バシンというよりズガンと重く鈍い音が続く。
真っ赤な紅葉を顔につけた老子は地に伏し、申公豹さまはわなわなと体を震わせて私を見る。
思考回路の追いつかない私はぼんやりとした表情のまま彼と顔を合わせた。
潤んだ群青の目と、真っ赤に染まった頬と目元。
いたたまれないといったその表情は先ほどとは打って変わっていて、私の心はぞわぞわと得体のしれない感情に支配された。
走り去っていく申公豹さまの後姿を見ながら唯一理解したことは、老子の言っていることはあながち嘘ではないのだということだった。
「なんでしょう…あの方、すっごくかわいい。」
ぽつりともらしたその声が聞こえたのか、まだ倒れたままの老子が「でしょう?」と得意気に笑っていた。
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初めて邑姜ちゃん書いてみましたがなかなか楽しかったです。
そのぞわぞわを人は萌えと呼ぶんです、邑姜ちゃん(^q^)
申公豹さんにしようか、さまにしようかで迷って結局私が萌える方を選びました。