*流血表現があります
海…?
真っ暗な海の上に立っている。
もちろん水面に立てる筈がない。これは夢だ。
一歩踏み出せば波紋が広がる。
水音がしない。
周りを見渡しても何もない。
波さえ来ない。
当り前か…私の世界には何もないのだから。
033 世界の中で
海に立ち尽くしたままで目が醒めた。
寒くて布団から出られない。
簡素な庵に冬越えはきついのだ。
横になったまま、出入り口の扉の隙間から外をうかがってみた。
(しろい……)
雪だ。どうりで寒いはずだ。
こう寒いと食べるものがなくなってくる。美味しくもない乾物を食べるのも飽きた。
仕方ないから今日は何か獲りに行こうか。
布団からだらだらと身体を出して、身支度を整える。
といっても、体を覆うものなど限られているのだが。
キィ。
軋む扉を開けて外にでる。まぁ見事に積もったものだ。
しかしなんだろう。
庵の前には不自然な雪の山ができている。
ここには岩も何もなかったはずだ。ここだけ異常に積もるなんてことがあるのか。
雪の塊に手を伸ばした。
(…?)
動いた…?
雪の塊だと思っていたものはどうやらイキモノだったらしい。
そっと雪を払いのけると、雪にも負けない程白い毛が出てきた。
こんなになるまでここを動かないとは、よほど弱っているのだろうか。
大体野生の動物が明らかに人の住んでいる庵の前にいるなど、到底考えられない。
よほどの変わり者だ。
そう、私のように。
半分ほど雪を払っても、イキモノは大きく動かない。
そろそろ手が痛くなってきた。
この生き物は何だろう。
こんなに大きくて真っ白。
と、おもったら、真っ白では無かった。頭の方の雪を退けると、額には黒い点あった。
顔にかかってた雪が、ばさりと落ちた。
(……虎?)
自分が知っているものの中で一番近いものを挙げるとそうなる。
しかし真白い虎など初めて見た。
珍しさにまじまじと見ていると、パチリと虎の目が開いた。
薄い、月のような色に、真黒の瞳があった。
その瞳に自分が映ったのを確認する前に、世界が反転した。
いつの間にか虎は私の上に乗っていた。
ああそうか。
虎は肉食か。
これから食料を取りに行こうとしていたのに、自分が餌になるとは笑える。
いや、笑い方など、忘れたが。
「……私を、食べますか…?」
命などくれてやる。
どうせ私は望まれなかったイキモノなのだから。
私には帰る場所がない。
行く場所もない。
私はずっと独りなのだ。ずっと、ずっと。
虎の牙が、首筋に近付いた。
しかし、生暖かさが広がったのは首ではなく腹部であった。
見ると、真っ赤に濡れている。
原因は虎からの出血だった。
腹周りにひどい傷を負っている。
傷と交互に虎の顔を見ると、大きな目がぱたりと閉じて、巨体が崩折れた。
息をつめる。
腹がつぶれるかと思った。
なんとか虎の体から這い出して、白い体を見つめる。
なんなんだ一体。
飢えていた私に信じてもいない神からの贈り物か?
虎の食べ方など知らない。
…肉は肉か。
雪に血液がじわじわと広がっていく。
虎はぴくりとも動かない。
白い虎の巨体をあるだけの力で転がした。
ぱっくりと開いた傷口が見えた。
人間の刀傷かと思ったが、傷は水平に三本。獣の爪だ。
何にやられたのかなど見当もつかない。
(……本当に…珍しい。)
真白い虎。黒縞の模様すらない。
この辺りは毎年雪が降っているわけでもなければ、今日のような豪雪も稀。
こんな真っ白な姿は、この森では浮き過ぎている。
浮き過ぎている、ということは、獲物を獲る時にこれ以上不利なものはない。
良く見れば、所々骨が浮き出ていた。栄養が不足しているのだろう。
白い毛並みをそっと撫でて、小さく呟く。
「…おまえは…おまえの世界に馴染めなかったのですか…?」
虎として生まれて、虎の世界に馴染めない、おまえと。
人間として生まれて、人間の世界に馴染めない、私と。
似ていると言ったら、おまえは怒るだろうか。
ずるずると、私は虎を引きずって庵まで歩いた。
食べるためではない。
傷口を手当しようと思ったのだ。
野生のイキモノに人間が手を加えるなど、なんて軽率で愚かな行為。
それでもそうしたいと思ったのは、この虎に一方的な親近感を持ってしまったからだ。
「っ…はぁ…。」
庵までたどり着いたころには、額に汗が滲んでいた。
意識のない虎の身体は、何と重いことか。
大きく裂かれた虎の腹を看る。
独学で作った傷薬しかなかったが、何もしないよりかはましかと思ってそれを使った。
あとは虎の生命力にかけるしかない。
一通り治療したところで、小さく腹が鳴った。
…そういえば、朝から何も食べていなかった。
結局いつもの乾物を食んで、うとうととしていたらしい。
気付けば夕刻になっていた。
隣の虎はというと、小さくではあるが呼吸をしている。どうやら死んではいないようだ。
額の、大きな黒点に手を伸ばした。
その毛に触れるか触れないかという所で、虎の目が開いた。
「――――っ、ツ…」
動物とはすごいものだ。
これだけ弱っていながら、なんと俊敏な動きだろう。
私の首を咬み損ねた牙は、今度は腕を確実に捕えていた。
鈍い痛みが走る。
「…アンシン…なさい…、私はおまえを食べたり…しませんよ…。」
痛みに声が歪む。
餓えた虎にこんな事を言っても何の意味もないかと思ったが、虎は随分あっさりと腕を放した。
といっても、牙が刺さっていたことに違いはないので、馬鹿みたいに血が出た。
傷口を押えて、うずくまる。
すると虎がひっそりと寄ってきて、傷を押さえている私の手を舐めた。
手を離すと、傷口ごと舐められる。
虎は私を気遣ったのかもしれないが、舐められる刺激が痛くて腕を引いてしまった。
それを察したのか、虎も身体を引く。
本当におかしな虎だ。
こんなにやさしい虎には、会ったことがない。
もう一度、虎に手を伸ばすと、白い虎は月色の目をこちらに向けて、私の掌を舐めた。
こうやっていると、まるで猫のようだと思った。
翌日の朝。
虎の回復力は大したもので、まだぎこちなさは残るものの普通に狭い庵の中を動き回っていた。
いつまでもここに置いとくわけにもいかず、元々飼い慣らそうと思っていたわけでもないので、虎を庵の外に出した。
虎は私を一瞥して、雪の残る森の奥に消えていった。
庵の中はまた静かになった。
別に寂しくはない。
ぽかんと空いた心の穴に、虎という存在が昨日まで浮かんでいて、そしてまた今日消えた。
ただそれだけのことだ。
さぁ、本格的に食料がなくなってきた。今日はちゃんと獲りに行かないと。
ドン。
出かけ支度をしていると、出入り口の扉が大きく鳴った。
扉を見つめていると、またドン、と音が鳴る。
何かが向こうから叩いているのだ。
恐る恐る隙間から覗いてみると、そこには先程ここを出たばかりの虎がいるではないか。
私は慌てて扉を開けた。
「おまえ…」
虎は口の回りを真っ赤にして立っていた。
がば、と虎が口を開くと、兎が一羽転がり落ちた。
状況が良くわからずに地に落ちた兎と目の前の虎を交互に見ていると、虎はスタスタとまた森に入って行った。
虎の後ろ姿を見送った後、地面の兎に目をやる。
(……私に…?)
非常に信じがたいことだが、あの虎は私にこの兎をくれたのだろうか。
自分もかなり飢えているだろうに。
それを耐えてまで私に。
「本当に…おかしな虎だ……」
兎を拾い上げながら、こういう時に人は微笑むのだろうかとぼんやりと思った。
その夜。
私はまた夢を見た。
真っ暗な海の上に立っている。
一歩踏み出せば波紋が広がる。
水音がしない。
波さえ来ない。
ただ隣に、雪のように白い虎が寄り添うように佇んでいた。
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過去捏造補完話その一。
このあと虎は一定の周期で白い彼のもとを訪れるようになり、そのまま庵の前に住み着きます。
で、白い彼は虎をいつまでもおまえ呼びじゃ味気ないと思ってクロ、と名前を付けるのです。
過去捏造は管理人だけが楽しい話で申し訳ない…(笑)
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