「――っぅ、あ…!」
がしゃんと音が鳴った時にはもう始まってしまっていた。
引き上げてくれるのは誰の声なのだろう。
070 崇拝と尊敬と愛
「っ申公豹、」
だれかの名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
だれかの?私の名前なんだろうか。
目を閉じているのか、開けているのか分からない。
どっちにしても目の前に広がるのはどこまでも赤い世界だ。
振り上げられた刃。
引きつった笑顔。
動かない身体。
細い腕。
血まみれの部屋。
気味の悪い細い三日月。
秒単位でそれらの映像がなんどもなんども繰り返されていく。
「っ、は…」
上手く息ができない。
後ろから抱きしめてくる身体を必死に振り払った。一体誰だというんだろう。
目の前の人間は私が殺したのだ。ここには誰もいないはずなのに。
ああ、そうだ殺したのだ。
母親の声は、あまり良く覚えていない。
けれどあの強張った表情と、私を見る目だけはいつまでも頭にこびりついている。
ああ、また後ろから誰かが私の身体を抱いてくる。
「いや、ですっ…放して、放せっ…!」
もういやだ、引き上げてほしい。
これは過去の映像なのだ。それは分かっているのに。
目の前に広がる映像はどこまでもリアルだ。
「――!」
だれかが何か言っている。伸びてくる手を振り払い、爪を立て、突き飛ばす。
それでもまた手が伸びてくる。
「も、う…いやだぁ……」
どうしてこの世界にこんなに優しい手があるのだろう。
こんなに激しく振り払っているのに、のびてくる手は労わるように触れてくる。
優しくしないでほしい。私は咎められるべきなのだ。突き放されるべきなのだ。
「申公豹、私の声が聞こえる…?」
「っ…」
耳元で声がする。
薄暗い真っ赤な部屋に不釣り合いな落ち着いた声が。
「き、こえ…る、」
この声に応えて良かったのだろうか。
けれども囁くようなその声は、とても力強かった。それだけの意志がこもっていた。
「そう、なら大きく息を吸って。」
「っ、でき…ませ…」
「大丈夫、何も考えないで。私と呼吸を合わせれば良い。」
すぅ、とゆっくり息を吸う音がした。
私はまだ詰まったような呼吸で、それに合わせるのは不可能な気がした。
「大丈夫。」
どこにそんな根拠があるのだろう。囁く声はどこまでも自信にあふれていた。
荒い息をなんとか止めて、吸って、吐いて。
何分もかけて、ぴったりと合わさった身体から感じる呼吸にあわせた。
「…ほら、できた。次は目を開けてごらん。」
こんな世界で頼るものなんてその声くらいだった。
恐るおそる目を開けると、大きな窓の向こうに細い三日月が見えた。
けれどその三日月はあの日の三日月ではなく、ただ静かにそこに佇んでいた。
「…おかえり。」
囁かれた声で、やっと帰ってこれたのだと知った。
一気に弛緩した身体が後方にいる声の主にしな垂れかかる。
ああやっとわかった。
「老子…。」
私の世界を融かした、ただ1人の人の名前。
呼んだ名に応えるように微笑んだ顔を見て、私は意識を手放した。
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暗くなりすぎるのも良くないと思ってすこし希望が持てる感じにしました。
お題に沿っているのかは謎ですが、申公豹にとって老子の存在ってでかいんだぜ!って話、のはず…(笑)
過去捏造はどうしても似たような話になってしまう…。
2011/05/18
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