此処はどこだ
  真っ暗で何も見えない。


  「   」


  遠くで声が聞こえる。
  だれ…?


  「 わ たしがほしかっ たのは こんなのじゃ ない 」


  あぁ私はこの声をよく覚えている。
  底知れぬ絶望に高く上がって掠れた、かわいそうな女(ひと)の声。
  それと同時に向けられる、憎悪と嫌悪と殺意に満ちた眼差しも、全部。


  「 ねぇ わかるでしょう かんたんなことよ 」


  彼女の痩せ細った白い手に握られているのは、目の前の子供を殺すのに十分な一振りの刃。彼女は震える唇を結んで、そして刃を振り下ろす。


  「――――ばけもの(あなた)をころせば わたしたちは しあわせになれるって ね ? 」


  月明かりに照らされた青白い闇が赤に染まる。
  残ったのはただ一人。


  生きているはずのない子供。





  073 ただ ゆっくりと





  「…珍しいな。」


  音一つない真夜中、薄い月明かりが部屋を染めている。
  普段は目醒めることのないこの時間、何かに呼ばれるように瞼を開けた太上老君は、そんな自分を不思議に思って
  とりあえず水でも飲もうかと身体を起こした。
  欠伸一つ出やしない。
  蛇口までの道をゆらゆらと歩く。石造りの床は裸足には冷たく、霞んでいた意識を幾分覚醒させた。


  そういえば、私の愛弟子はどうしているのだろう?


  申公豹の部屋の前を通り過ぎる直前に、太上老君はふとそう思い足を止めた。微笑ましい寝顔をしているだろうかと。
  微かに笑んで、扉に手をあてる。




  「はっ、――――っつ…」


  そっと開いた扉から漏れるのは、荒い息遣いと頻りにシーツを引っ掻く音。
  少し目を見張って、太上老君は空いた扉から部屋の中に入り、寝台で丸くなって眠っている申公豹に視線を落とした。
  苦しげに眉間に皺を寄せ、額には玉のような汗。シーツに白くなるほど強く立てた爪は、もがく様に右往左往している。
  何度も、何度も。


  ああ、今日目が醒めたのは、このせいか。


  太上老君はそう直感して、震える愛弟子に手を伸ばした。
  シーツを引っ掻き続ける手に自分の手を重ねて、できるだけ優しく、名前を呼ぶ。
  こんな時間に目が醒めたのは、この子を悪い夢から掬い上げるためなのだろうから。


  「申公豹、」


  反応はない。正確にいえば、掛かる吐息に身体は反応するものの、意識が反応を返さない。
  太上老君はもう一度名を呼んだ。


  「  、」


  それは申公豹になる前の名前。彼が道士になる時に、捨ててしまった名前だ。

  
  びくん、と細い体が跳ねて、銀色の睫毛に縁取られた大きな目が一気に開いた。
  いつもは青空のように澄んだ群青が、今は冬の湖面のように冷たい色をしていた。
  息を呑み、怯えきった眼が太上老君を見、次の瞬間には涙が溢れていた。
  暴れようとした申公豹の身体を、太上老君は必死に寝台に縫い止める。


  「ゃ…だ、――嫌だ、放して、」


  申公豹はいまだ夢の中のビジョンを見ているのだろうか、その眼は太上老君の、その遥か向こうを見ている。
  暴れる、抑える、もがく、縫い止める。そんな応酬を何度も繰り返すが申公豹は一向に治まらず、叫ぶ声は悲痛になるばかり。


  「嫌だっ、放して、はな…せ、――放せ、ぇえッ!!」
  「ぅっ…」


  もう半分以上泣きそうな声で申公豹が叫ぶと同時に、太上老君の頬に鋭い痛みが走った。
  パタパタと申公豹の服の上に血液が落ち、染み込んでいく。
  申公豹から発散された力が、刃になって太上老君の皮膚を割いたのだ。通常、宝貝もなしにこんなことが出来るはずもない。
  しかし、出来るはずもないものが彼にはできてしまうのだ。
  力の質、量、ともに驚異的、これでコントロールさえ出来るようになれば、彼の上に立つ者はいなくなるだろう。
  そしてそれを身につけるだけのセンスを彼は持っている。
  大きすぎる力は仙道ならば欲してやまないものかもしれない。
  けれど彼がその力を持っていると知った時、彼はまだただの人間で、ただの少年でしかなかった。
  両親は人ならざる力を持った我が子を恐れ、忌み、そして杯の水は溢れる。


  太上老君は申公豹の過去を彼自身から聞いたわけではない。
  ではなぜ知っているのかというと、申公豹を仙界に上げる前に太上老君が申公豹の夢を覗いたからである。
  彼はごく普通の村の、ごく普通の夫婦の間に生まれ、ごく普通の幼少期を過ごす。
  しかしある出来事をきっかけに彼の力が露見し、以後彼を恐れた両親は彼を半ば家に幽閉する。
  彼は何故外に出してくれないのかと悲しみをため込み、両親はいつ我が子が人ならざる力を使うのかと、極度の緊張とストレスをため込んでいった。
  もちろんそんな生活が長く続くはずもなく、程なく母親が名案を思い付く。


  そうだ、あの化け物を殺してしまえ。


  なぜ気付かなかったのだろう、これで全て上手くいく。
  すっと肩の荷が下りた母親は、実行に移すその日まで彼にありったけの愛情を注いだ。
  どうせ殺してしまうのだからと思うと、あれほど恐れていた彼の一挙手一投足が、この上なく愛おしく思えたのだ。
  そして母親は彼に刃を振り下ろす。気味の悪い細い三日月の夜、父親は家に居らず、母親だけであった。
  しかし刃が彼に突き刺さることはなかった。
  殺されると無我夢中になった彼が次に目を開いた時、目の前には血だまりに沈む母の姿があった。
  彼の力が母親の心臓を貫いたのだ。
  そう、さっき太上老君が怪我を負ったのと同じ力が。
  自分のしたことが理解できず、彼が放心していると、程なく父親が帰ってきて絶叫する。
  狭い村だ。悲鳴を聞きつけた村人が家に押し寄せ、彼を取り囲み、殺そうとしたらこの母親のようになるかもしれないからと、彼を殺すのではなく、村から追放した。
  ご丁寧に黥捏まで彫ってである。彼が村に戻ってきたときにすぐ分かるように、というところだろうか。
  そうして村に戻れなくなった彼は、独りで生きていくことになった。人が誰も近付かないような森の中に庵を構え、たった独り。
  その後、太上老君に目をかけられた彼は、こうして仙人界に昇ってくることになり、今に至るわけだが。
  仙道になったからといって過去のことが消えるわけでもないし、胸の傷が治るわけでもない。
  白い頬に刻み込まれた、入墨のように。





 
  「ぁ…」


  白い頬に赤が流れたのを捕えて、ようやく申公豹は太上老君を視界に入れた。強張っていた身体が徐々に弛緩していく。
  罪悪感と後悔が混ざり合った顔をして、また一つ涙を流した申公豹に太上老君は微笑む。


  「大丈夫だよ。」


  痛くないから、という意味なのか、それ以上の意味なのか。
  申公豹だけに聞かせるように小さくそう呟いて、目の前の細い体を、覆いかぶさるように抱きしめた。
  力の抜けた身体はさっきまでの抵抗が嘘のように大人しく太上老君の腕の中におさまった。荒かった息が段々と緩くなり、震える唇が小さく開く。


  「…、なさ……、ごめんなさい…」


  か細い、蚊の鳴くような声だった。
  今にも消えてしまいそうな声に、太上老君はただ、うん、と相槌を打ってそれ以上は何も言わなかった。
  細い声が謝り続けている。太上老君に対してか、かつての母に対してか。やがて声が途切れて、沈黙が降りた。
  太上老君がゆっくりと身を起こすと、申公豹は目を閉じて規則正しい寝息を立て始めていた。
  そうしてまた彼は夢に堕ちていく。


  今日はあの日と同じような夜だから、フラッシュバックしたのかもしれないと太上老君は思った。ごろん、と申公豹の隣に潜り込む。
  すぐに目に飛び込んでくる、頬の四印の一つに指を滑らした。彼は己の顔と向き合うたびに、罪の重さにつぶされそうになっている。
  たとえその罪が正当防衛であったとしても。
  太上老君は瞼を閉じて、ため息をついた。

  嫌いだ。

  彼を捉えて離さない彼の夢も。彼を縛り付けたままのこの四印も。
  申公豹に纏わりついている茨を取れるものなら取ってやりたい。
  けれど、彼の傷を癒すのは誰の言葉でも行動でもない、申公豹自身が自分を許さなければ、意味がないのだ。
  外から手を加えれば、茨の棘が刺さって、傷がまた残るだけ。
  だから今は時が経つのを待つしかない。
  ゆっくりと。時間をかけて。

  彼の悲しみが無くなるように。
  それが叶わないなら、彼の悲しみが暖かい何かに包まれて、染み出すことのないように


  …暖かい何かに、なれるだろうか。


  太上老君はそう呟いて、涙の跡の残る申公豹の目尻を、そっと拭った。











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  過去捏造の原点はこんな感じです。
  黥捏又は刺青ネタは他サイト様で何度か拝見したことがありますが、ほんと萌設定です。
  特に黥捏は辞書引いたときのインパクトがでかかったので、その方向で捏造してます。
  所詮知識が付け焼刃なので、私が書くと嘘くさいですけどね…(笑)

  *黥(げい)…「墨刑の面に在るものなり」とあり、顔に刑罰として加える入墨をいう。刑罰として辛(針)で入墨するものは黥捏(げいでつ)。
           (白川静著、『字通』より引用。)

  09/3/12


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