074 時に 悲しみを込めて



              真夜中になっても積もりに積もったままの書類にいい加減嫌気がさし、気分転換に散歩に出かけた。
              てくてくと街から外れるように森の中へ入っていくと大きな自然の池があった。
              湖とまでは行かないが、かなり大きな池だ。
              しかし見える範囲で推測するならば、そう深くはない。
              ほぉ、こんな所にこんなものが。と感心して近寄っていくと、良く見知った人物がいてぎょっとした。



              「お、おぬしそんなところで何をしておる…。」



              恐る恐る声をかけると、しばらく反応のなかったその人物はゆっくりとこちらを向いて何食わぬ顔でこう答えた。



              「水に浸かってるんですが、何か?」



              白金の髪を揺らして、笑みを湛えた道化が言う。
              申公豹だった。


              「何かって…服を着たままでか?」
              「脱ぐのが面倒でしたので。」


              普通、そんな理由でびしょ濡れになるだろうか。
              ほとほとこやつは理解が出来ん。


              「…変なやつだのぅ。」


              思ったままを言うと、水の中に突っ立っている申公豹がクスクスと笑った。


              服はもとより、頭からずぶ濡れだった。
              水を含んで一層月光に煌く髪から伝った水は水面に落下、もしくは額を滑り、頬を伝い、ぱたぱたと流れていく。
              それがまるで涙のようで、なんだか随分あやつをか弱げに見せていた。
              涙?
              いや、まさか。こやつに限ってそんなことは。


              こやつといえば、いつも人を喰ったような笑みを浮かべているばかりなのだから。



              「…風邪を引くぞ。」
              「大丈夫ですよ。」
              「黒点虎はどうした。」
              「散歩です。」
              「主人を置いてか?」
              「…私が散歩に行くように黒点虎に頼んだんです。」
              「なぜだ?」
              「…。」


              申公豹は最後の質問には答えなかった。
              ただ笑っていた。
              でも、なんだかそれがおかしいのだ。
              いつもと違うと言うか、なんと言うか、とにかく違和感のある笑みなのだ。


              「…なんか変だぞ、おぬし。」


              白い横顔に言う。
              ちらりと視線を寄越した群青の瞳は、この真夜中の水底のように昏かった。
              冷え切るような冷たさだった。


              「おや、私を変な奴だと言ったのは貴方でしょう?変な奴が変な事をしても、何の不思議もないのでは?」
              「おぬしらしくないと言っておる!」


              そこまで言って、しまった、と思った。
              次の瞬間投げられた視線は、こちらの動きを一切封じるほどのとんでもない威圧を放っていた。



              「らしくない…?貴方に私の何がわかると言うんです…?」



              空気が変わる。
              一瞬ざわついた森は一気に音を無くし、申公豹の周りで一輪だけ同心円状に水面が揺れた。
              大気が震える。
              冷や汗が伝い、息をするのさえ、億劫だと思った。














              「失礼…言い過ぎました。」


              ふ、と申公豹が肩の力を抜くと同時に、空気は元のように穏やかになった。
              止まっていた呼吸を開始する。
              心臓が馬鹿みたいに速かった。
             

              「太公望、早く帰った方がいいですよ。貴方は周の大事な軍師なんですから…こんなところで私と話していてはいけませんよ。」


              そう言って、またこやつは笑った。
              目は全く笑っていなかった。
              笑いたくないはずなのに、笑っているこやつが理解できなかった。


              「なぜ笑うのだ?」
              「もともとこういう顔なんですよ。」
              「違うっ、なんだか今日のおぬしは…!」


              なぜ笑う?
              なぜそんな風に、…悲しそうに笑うのだ。


              そんな風に笑うな、こっちまで苦しくなるではないか。





              …きっと今わしは情けない顔をしているのだろう。
              なんだか胸が痛いのだ。
              こやつが泣きそうだとこっちまで泣きたくなってくる。


              目頭が熱い。              





              「…なに…泣いてるんですか、太公望。」
              「泣いてなどおらぬ。」
              「泣いてるじゃないですか。」


              ぱしゃぱしゃと水音を立てて、申公豹がこちらに寄ってきた。
              足元が20センチほど水に浸かったままの申公豹は、陸に上がることなく、池の淵に立っていたわしの頬に指先を滑らし、
              あふれた涙を拭った。


              「やっぱり泣いてるじゃないですか。」
              「違う…。」
              「…。」


              事実を述べているのに相手が納得しないことを申公豹は気に入らなかったようで、銀の柳眉がぴくりとひそめられた。
              ぽたりとまた一つ、目から雫がこぼれ落ちた。


              



              「これはおぬしの涙だ。」
              「は…?」
              「おぬしが素直に泣かずに無理をして笑うから、代わりにわしが泣いてやる。」


              呟くように、けれど確実に申公豹に伝わるように言う。
              申公豹は驚いて目を見張っていた。


              「な、にを…わけの分からないことを。」
              「わしが来るまで泣いておったのだろう?」
              「泣いてなどっ…いません…!」


              さっきまでの落ち着き払った様子が嘘のように、申公豹が大きく叫んだ。
              それでは、泣いていたと言うようなものだぞ…申公豹。
              どうしてこやつはこんなに不器用なのだろう。
              最強の名を持っているくせに、今はガラスのように脆くて放っておけない。
              衝動的に、池の中と陸の上という地形上、普段よりは随分低い位置にある頬に手を添えて、唇を合わせた。



              「…っ…!?」



              びくりと驚いた申公豹の手がわしを放そうと動いた。
              その手を握り込んで、頬に添えていた手は首にがっちりと回して、離れないように、深く深くキスをした。


              「ん…ぅ、んっ…」


              合わせた唇は怖ろしいほどに冷たかった。
              どれくらいこの池の中にいた?
              握り込んだ手も、触れた項も、まるで氷のようだった。



              「――――っ…!!」



              こちらが気を抜いた一瞬に、申公豹はどんっ、と渾身の力でわしを押し返した。
              よろけて倒れそうになったのを、必死に踏ん張った。



              「も…帰ります…っ…私に。私に構わないでください…っ…。」



              絞り出すような声で申公豹が言う。
              今にも消えそうな声に腕を伸ばしたが、やつに届くことはなかった。
              どんな術を使ったのやら、あやつはたちどころにわしの前から姿を消したのだ。








              「やはり泣いていたではないか…。」

 
              申公豹が消えた場所をぼんやりと見つめ、呟く。
 

              消える瞬間に見たのだ。
              頬から零れ落ちる一雫を。


              のぅ、申公豹…泣いていたのであろう?
              泣いて泣いて、そんな自分に嫌気がさして、泣いた事実を消すように頭から水に飛び込んだのであろう?


              あやつのいなくなった池に手を浸す。
              この水にあやつの涙が混ざっていのだ。
              そう思うとなんともやり切れない気持ちになって、水に濡れた手を腕の前で握り、…護るように抱いた。









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              管理人の「申公豹を泣かせたい」という欲求から始まった話ですので、
              何で泣いてたか、とかそこらへんがぽーんと抜けております(ええー
              まぁ、なんだ、泣きたいときもあるんだよ、うん。
              そう言うわりには申公豹、あんまり泣いてませんが(笑)
              しっかし望ちゃんが慰め方を間違った彼氏、みたいになっててすいません;


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