その日は熱帯夜だった。
  うだるような暑さでは安眠などできるはずもなく、小さく唸って眼を覚ませば
  隣にいたはずの身体がどこかへ行ってしまっている。
  あの人が自分に張り付いていないのに暑くて目を覚ますということは、 なるほど、今日は本当に熱帯夜らしい。  
   081 あなたを思う私の心を知って
   時間は分からないが恐らくは真夜中。夜明けは遠い。
   太上老君の姿を探して、申公豹は家を一通り見たのだがどこにも見当たらない。
   もしやと思って玄関をみると、滅多に履かれない太上老君の靴がなかった。
   追いかける理由はどこにもない。 放っておいても明日の朝には戻っているだろうし、危険な目になど遭うはずもない。
   そう思って申公豹は一度寝室に戻りかけたが、もう一度玄関まで戻って自分も靴をはいた。 
  …どうせ暑くて眠れない。寝台の上に転がっているよりも老子の行方を探った方がいくらか暇つぶしにはなるだろう。
   そう、思って。
  外の空気は家の中よりも幾分涼しく感じられる。
  砂利道を踏みしめる音と虫の音ばかりが耳に付いた。
  月明かりを頼りに歩を進める。太上老君を探すといっても、申公豹には特に思い当たる場所があるわけでもなかった。
  ただ師の纏う気配を頼りに、漠然と、足の赴くままに歩いて行くだけ。
  この先は大きな池だ。澄んでいるくせに生き物のいない奇妙な池。
  辿り着くと水面が揺れていた。
  生き物がいないのに揺れているということは、何かが入っているということなのだろう。
  そう、外部からの何か。
   「老子。」
  申公豹が声をかけると、仰向けで水に浮かぶ人物が視線をこちらに向けた。
  寝起きのような、そうでないような顔をしている。
  「…なにやってんですか。」
  「んー…?…だって暑いでしょう?」
  
  水の上で寝たら涼しいかなぁと思ったんだよね。
  と、本気なのか冗談なのか良く分からない答えが太上老君から返ってきた。
  「下手したら溺死ですよ。」
  「あー確かに。」
   くすくす、と太上老君が喋りながら笑うと、また水面が大きく揺れた。
  ほんとに良くわからない人だ、と申公豹はため息をひとつ吐く。
  「でも眠気も来ないし、飽きてきちゃった。そろそろ帰るよ。…君も来てくれたことだし。」
  最後の台詞を何やら嬉しそうに呟いて、太上老君は身を起こした。
  池はちょうど腰くらいの深さだ。 
  濡れた髪や肌に月光が反射して、それほど眩しくはないはずなのに申公豹は目を細めた。 
  普段はただのぐうたらだが、こうして見るとやはり彼は麗人なのだ。 
  やっと真正面から申公豹と目を合わせた太上老君は、少し首を傾げて口角を上げた。 
  「なに、見惚れた?」 
  「…黙ってください。」
 
  否定はしなかった。 
  「あーぁあ、びっしょびしょ。」
  「当たり前でしょう。後先考えずに行動するからです。」
  申公豹が一人で歩いてきた道を、今度は二人並んで歩く。
  太上老君が着ている服の裾やらなんやらを絞りながら歩いているので、ぼたぼたとどこか場違いな音が響いている。
  水を含んだ服は肌に張り付いてとても歩きにくそうだ。
  「服重い…。」
  「ばかですか貴方は…」
  ふふふ、とからかう様に笑って言った申公豹につられて、太上老君も笑みをこぼした。
  可笑しそうに自分の今の格好をしげしげと眺めると太上老君は何か思い出したのか、あ、と声を漏らした。
  「…そういえば、ちょっと前に君もこんな風に、ずぶ濡れになって帰ってきたね。」
  「そう、でしたかね。」
  「しかも空間転移までして。」
  「…忘れましたね。」
  申公豹は気まずそうに視線を下に落とした。
  
  2、3か月前、申公豹は今の太上老君さながら頭から足の先までずぶ濡れになって家まで帰ってきた。
  雨が降ったわけではない。池に飛び込んだのだ。
  何かを振り切るために。何かを忘れるために。
  けれどその何かは申公豹にしか分からないし、誰にも伝えられていない。
  色々あってとにかくみすぼらしい恰好で帰ってきてしまったので、
  申公豹はその日のことについて追及されるのが嫌だった。 
  なんとか話を逸らそうとするのだが、なにやら裏目に出ているような気がしないでもない。
  「その上、泣いて帰ってくるし?」
  「泣いてません!」
  勢いで叫んでしまって、しまったと思った時にはもう遅い。
  申公豹から斜め上の太上老君は、にやりと笑って、やっぱり覚えてるじゃない、と唇だけ動かして言った。
  それをみた申公豹は、口をへの字に曲げて、視線を地面に戻した。 
  「ほんとに泣いてませんからね。」
  「はいはい…」
  意地になって否定する申公豹に太上老君はなんとか笑わないように努めて返事をした。
  が、やはり笑ったのがばれたのか、申公豹の歩く速度が速くなったので、
  置いていかれないように自分も歩幅を広げて歩いた。
  「…暑かったのもあるんだけど、ほんとはさ、どんな気分だったのかなぁって思ったんだ。」
  「はい…?」
  「だから、泣いて水に飛び込む気分ってどんなのかなって。」
  「っですから泣いてませ……」
  もう一度否定して顔をあげると、見上げた太上老君が思ったより真剣な顔をしていたので、申公豹は目をみはった。
  「――――寂しいってあんな感じ…?」
  「な…」
  「冷たくって、柔らかくて、そのくせ受け入れてくれない。水は寄り添いはするけど抱きしめてくれないもの。」
  静かな声が、夜道に響く。
  つまり太上老君は、申公豹の気持ちを垣間見たくて水に浮いていた、ということらしい。
  太上老君が歩いていた足を止めると、つられて申公豹も足を止めた。
  太上老君の解釈が当たっていたのかどうかは定かではないが、申公豹の胸には少なからず刺さったらしい。
  交差する瞳の中で、群青が揺らいだ。
  金色はそれを見逃さない。
  
  「今度は独りで泣かないで、」
  ひやり、とまだ少し濡れている太上老君の手が、申公豹の頬に触れた。
  親指で、刻まれた四印の片方をなぞると、申公豹の肌が震えた。
  「傍で泣いて。」
  「水になんか飛び込まないで、」
  「私のとこへおいで。」
  ね…?と念を押されると、申公豹は戸惑ったように視線をずらした。
  息がかかるほど近くに太上老君の顔がある。
  「…。…考えておきますよ…。」
  数十秒の間の後、その一言を返すのが精いっぱいだった。
  「そういえば…泣いてた理由は聞かないけど。どうして転移までして帰ってきたの?」
  もう数分歩けば家に着く、といった所で、太上老君が不思議そうに問いかけた。
  申公豹はあの日の出来事を思い返して、その問いに正直に答えるべきなのかどうなのか一瞬思案したが、
  特に問題はなかろうと思って話すことにした。
  が、この選択は間違いだったことを後になって知ることになる。
  「実は池に入っている最中に太公望に会いまして。」
  「うん。」
  「口を塞がれたのでびっくりして帰ってきただけです。」
  へぇ、と軽く返した太上老君だったのだが、もう一度申公豹の言ったことを反復して、血相を変えた。
  「え、ちょっと、今何て。」
  「?ですからキスさ――ちょっ…なんですか!」
  とす、と太上老君は近くにあった木に申公豹を押しつけた。
  まったくこの愛弟子はなんというかかんというか、どうも、鈍すぎる節がある。
  「そんなの今初めて聞いた。何、君にキスしたのあいつ。」
  ひくりと口をひきつらせて、不穏な空気をまとった太上老君が問う。
  一方の申公豹はといえば、なんでそんなに機嫌が悪いのか心底分からない、と疑問符を飛ばしている。
  キスという行為は把握していても、そこに含まれる太公望の諸々の想いは申公豹には受信されなかったようである。
  それは太上老君にとって幸いと言えば幸いなのだが、申公豹がこうも無防備では困りものだ。
  何よりかわいいかわいい(以下略)恋人兼愛弟子の唇が奪われたとあっては面白くない。
  「だからそうだって言って…は、放してください…!」
  「ありえないっ!ちょっと大人しくしてて!」
  「やですよ!!なんなんですか一体っ…!」
  「消毒するの!」
  「はぁ…!?」
  じだばたと申公豹はもがくが、身長差と力の差もあって敵わない。
  申公豹は降ってくる接吻に応えるしかなかった。
  「ふ…っ…んぅ…」
  噛みつくようなキスのくせに、消毒というだけあって隅々まで丹念に口腔を侵される。
  銀糸を引いて唇が離れた頃には、申公豹の顔はすっかり上気してしまっていた。
  外気が一気に甘く、重くなったような錯覚に陥る。
  「他には何もされてない?」
  「されて、ませんっ…」
  「本当に…?」
  ほんとです!と申公豹は叫んだが、太上老君は信じる気があるのないのか。
  白い指はするりと服の中に忍び込んでくる。
  「ゃ…めっ…!」
  「だってされてないっていう証拠ないじゃない。」
  されてる証拠もないでしょうが!と申公豹はかみ付いたが、
  太上老君の表情は嬉々としていて、これはもう申公豹の言っていることを信じていないのではなく、
  完全にこの状況を楽しんでいるだけだと見て取れた。
  「されてない証拠が見つかったら、やめてあげる。」
  にこりと特上の笑みで返されて、ついに申公豹は抵抗するのをあきらめたのだった。
  「……次寝る時期に入ったらもう目覚めなくていいですよ。」
  「ご、ごめんってば申公豹ー…」
  結局あの後がっつり最後まで頂かれてしまった申公豹は、もう立つこともできずに、
  今は太上老君に抱きかかえられて家までの道のりを進んでいた。
  刺々しい口調で責められて、太上老君も勢いまかせで事に及んでしまったことを反省した。
  「嫌だって言ったのに止めないわ、貴方が水でずぶ濡れだったから私の服も濡れるわ、挙句の果てに中で出されるは…」
  「……。」
  真実を並べたてられて項垂れる太上老君を見て、さすがに申公豹もそれ以上言うのをやめた。
  自分と太公望がキスをしたことに太上老君が嫉妬してこうなったというのを、身をもって知ったからだ。
  ふう、と一つ息をついて、小さな声で呟いた。
  「私も、」
  「…?」
  「私も、反省…してます。もうキスしませんよ、あなた以外とは。」
  頬を幾らか染めて、そう言う申公豹に太上老君は息を詰まらせてぎゅぅうと抱きしめた。
  「申公豹…っ」
  「だぁあもう!なんなんですか、濡れるからくっ付かないでくださいってば…!」
  暗い夜道も、気付けば遠くの空は光を帯びてきている。
  二人は慣れ親しんだ家へ早く帰ろうと、砂利道をまた、踏みしめた。
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  「074 時に 悲しみを込めて」 の後日談、相変わらず甘ったるいです。
  お前の話にはいくつ池が出てくるんだと言われそうなぐらい池が頻出していますが
  見逃してやってください、…好きなんです、池が…(笑)
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