この世界でただ一つの結び目で。


 099 あなたが泣かないように


「どうかした?」
「いいえ、なにも。」


見遣った顔は微笑んでいた。
群青色の瞳は夕焼けの色を取りこんで不思議な表情をしていた。
西日を受けて煌めく白金の髪は今は結われていなかった。
今日は風がなかったので、その綺麗な髪が揺れたのは彼が首を左右に振ったせいなのだろう。


「申公豹、」
「はい?」
「動けないよ。」
「…御冗談を。」


ふふふ、と申公豹が可笑しそうに笑った。
私と彼は、真正面を向いて指先を触れ合わせているだけだった。
中指に一番力が入っているけれど、それすらも一呼吸ずれるだけで触れ合わなくなるだろう。
つまりそれ位弱い力で触れ合っているわけだ。


「少し後ろに下がるか、横にずれるか…ただそれだけで解放されますよ?」
「それでも、」


私は動けやしないよ、と言った。
申公豹はまた可笑しそうに笑って、掌をぴったりと合わせてきた。
私より一回りほど小さな手の体温は低かった。
彼の体温が少し低めなのは、私が一番よく知っている。寝起きなんて、とても冷えた手をしているから。


「…どうして動けないんですか?」


ゆっくりと瞬きをして、申公豹がそう尋ねた。
テノールとも言えず、アルトともつかないその声は私の耳にとてもよく馴染んで反響した。
触れ合った手の先が動いて、ゆっくりと絡む。
いつもグローブをしている彼の手は彫刻のようだったが、それは柔らかく私の皮膚を刺激した。


どうして動けないのかなんて、本気で聞いているのだろうか。
君は今、自分がどんな顔をして私と向き合っているのか分かっているのだろうか。


「ねぇ、老子。」
「うん…?」
「もし、あなたが仙人じゃなかったら。私があの二人から生まれてなかったら。仙人骨を持っていなかったら。あなたが生まれていなかったら。この星が生まれていなかったら。それは途方もない数の、あらゆる可能性が削がれていたら。」
「うん、」
「私とあなたはこうして手を触れ合わせることもなく、見つめ合うこともなく、なにもかもなくなって…」
「うん、」
「…そう思うと、とても。――たまらない、」


歪んだ目元を視界の端に捉えて、私は震えかけた唇に口付けた。
冷えたそこに体温を分け与えるように柔らかく、触れ合わせるだけの。
繋いだ手に少しだけ力が加わった。もう、ほんの少しの力では解けない。
この星の中で、たくさんの人々が今この瞬間に手を繋いでいたとしても、私たちのものが一番強固だと信じたかった。
全てのものには流れがあって、それが見えれば勝ちも負けもなくって。
それでも。
足掻いて、足掻いて、捻じ曲げたくなる運命だってあることは私だって知っている。
私も、彼もそういうものがきっとあって、やっぱりそれに足掻いて、時には横目で流して生きてきたのだ。
この長い長い時間を。
私よりも、ずっとずっと優しい彼は、だからこうやって小さな身体にたくさんの思いを詰め込んで溢れさせてしまう。
その時は黙って私の身体に流し込めばいいのだ。
そうすれば、たくさんの思いを分け合った私たちは今よりももっと強い結び目が作れるようになるのだろう。


「老子、ろうし、」


透き通った声を聞いて、私はぎゅう、と繋がった手の隙間がなくなるほどに握りしめた。
何度も、何度も。









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事変の夢のあと聞いてたら書きたくなったので。
なんか似たような話書いたような気もする…。




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