老子の挨拶は私にはあまり馴染みのないものだった。
あいさつ代わりに甘い
「おはよう。」
驚いた。
じっと見つめてしまうほど整った容姿が、私の頬のすぐ傍にある。
だが、頬に柔らかい感触だけを残して、その顔はすっと離れて行った。
何のためらいもなく、さも当然のように。
今のは何だったのだろう、と柔らかい感触がまだ残る頬を指で触りながら、私は何も言えずに老子の顔を見た。
彼は微笑んでいた。
「挨拶だよ。」
「あいさつ…」
「そう、挨拶。」
彼の形のいい唇の端がくっと上がる。
挨拶は、言葉だろう?と思ったけれど、老子は欠伸をしてまた寝室に行ってしまったので、何も言えなかった。
次の日。
「おはよう。」
また、頬に唇が触れる。
私は昨日と同じように違和感を抱えたまま、また一人残される。
こんな挨拶は知らない。
私の知っている挨拶は言葉だ。
老子の生まれた所では、これが普通の挨拶なのだろうか。
…聞きたい相手は、夢の中だ。
また次の日。
「おはよう。」
「…おは、よう…ございます。」
私は私の知っている挨拶をした。
言葉だけの挨拶。
私と老子の挨拶は違っていたけれど、老子は嬉しそうだった。
そしてまた彼は夢の中に堕ちていく。
そのまた次の日。
私は尋ねてみた。
「老子の、挨拶は…昔からそうなんですか?」
「ん?」
「その…頬に…。」
「ああ、」
そうだよ。
と、返ってくるものだと思っていた。
けれど老子はこんな事を言った。
「いいや、これは君とだけの挨拶だよ。」
「え?」
「君とだけする挨拶だ、申公豹。」
金色の目が、私を見ている。
月の様な、優しい色をして。
「それは…師弟の、という意味ですか?」
私と彼の間にあるのはその関係のはずだ。
だからそう口にした。
彼はすぐには返事をしない。
窓から入った光が、老子の浅葱の髪を照らして、私は眩しくて目を瞬かせた。
眩しい煌めきの中で、老子の笑っている口元だけが目に入った。
それが困ったように笑ったのか、嬉しそうに笑ったのかはその時の私には判断がつかなかった。
数秒後。
差し込んだ光が、ふっと消えて、もとの明るさに戻った。
光が差し込む前と同じように、優しい目が私を見ていた。
「…うん、まぁそんなとこかな?」
彼はやっと私の問いに対する返事をした。
今度は微笑んだのがはっきりと分かったので、私も少し口元を緩ませた。
ふぁ、と老子が欠伸をした。
また眠くなったようだ。
長い袖をひらひら揺らして、老子は私に背中を向けた。
一歩足を踏み出そうとしたその背中に、私は声を掛けた。
「明日は、」
彼は振り向いた。
私が次の言葉を躊躇っている間、何も言わずに、ただこちらを見ていた。
長い睫毛に縁取られた目が、一度、二度、三度、瞬きをする。
「――明日は、私も…その挨拶をします、老子。」
やっと絞り出した声は喉に引っ掛かって掠れ、しかも小さかった。
けれどもその不格好な声は向こうに届いてくれたらしい。
「うん。」
老子は、また目を細めて微笑んだ。
ああ、じゃあ明日は早起きをしないとね、と軽口を叩いて寝室に向かう老子の背中を、私は飽きるまで見つめていた。
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もちろん老子は「師弟の」なんかのつもりであんな挨拶してません(笑)好意の押し売りです。
でもその言葉を否定しなかったおかげで、申公豹も明日からおはようのキスをしてくれるようです。
くっつくまでは変化球、くっついてからはストレートな老子。
ん…?変化球でもないか。申公豹が鈍いだけ?(笑)
10/7/28
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