■2010年度 拍手お礼小話■
1月分 *現代パロ
時計の針が午前0時をさした。
ボクを拾ってくれた主人は、いつものようにリビングのテレビの前のソファに座って読書をしている。
付けられたテレビからは、小さな小さな音で新年の祝辞が聞こえていた。
その声に気づいて、申公豹は手元の書籍から顔をあげた。
すぐに腕が伸びてきて、ボクの身体が浮き上がる。
「あけましておめでとうございます。クロ。」
小さく笑って、抱き上げたボクに申公豹がそういった。
ボクは
「にゃぁ。」
と一つ、返事をした。とたんに申公豹の笑みが深くなって、ボクも嬉しくなった。
そのまま膝の上に乗っかって、のんびりしようかと思ったら、急にテーブルの上の携帯が鳴った。
数秒揺れて、ぴかぴかと光ったそれは、ゆっくりと申公豹の手の中に収まった。
ぱか。
いつもと変わらない所作が、どこか違うように感じるのは気のせいだろうか。
じっと画面を見つけていた申公豹は、そっと、はにかんだように笑った。
あーあ、もうそんな顔したら誰から来たメールかバレバレだと思うんだよね。
嬉しそうにしちゃってさぁ。
申公豹が幸せなら、ボクも幸せだけどね。
ただ、あの緑の髪の変態のなにがいいのか、ボクにはわかんないけどね!
元旦の申公豹とクロ
2月分 *現代パロ
「老子、それは?」
申公豹は太上老君に振る舞った(というか仕方なく出した)手料理の皿の上にちょこんと残されたそれを指さして言った。
太上老君の顔が一瞬引きつって、それから眉が下がった。
「…しいたけ嫌い…。」
「……それは初耳ですね。」
太上老君が幼少時からほとんど家庭の味なんて知らずに育って、外食ばかりの生活をしていたのは申公豹も知っている。
加えてこの性格なので、栄養のバランスも考えずに好きなものだけ食べていたにきまっている。
なので好き嫌いは…まぁ多いだろうと予想はしていたのだが、しいたけだとは思わなかったのだ。
「なんていうか触感?がだめ…」
「あー…確かにむぎゅっとしてますね。」
「そうその、むぎゅがダメ。」
言いながら、老子が肩を落とした。よっぽどダメらしい。
この人でもこんな風になるんだなぁと、申公豹は新鮮に思った。
と、同時に、少し悪戯心が湧いた。
「では、この際だから克服してしまいましょう。」
「うん、…って、えぇえ!?」
「残したらもったいないですし。」
「だ、だったら申公豹が食べてよ。」
「それじゃ意味ないでしょう。」
意味なんてなくたっていい、と太上老君は心底思ったが、どうにも断れる雰囲気ではない。
なんとか交わす方法は…と考えていると一ついい案が浮かんだ。
「…じゃあ、申公豹が食べさせてくれたら食べる。」
ようするに、「あーん」をしろということである。
申公豹なら絶対しない。絶対断る。
そう踏んでいた太上老君だったが、この日の申公豹は一味違った。
「…。……はい、」
さすがに「あーん」は言わなかったが、申公豹は箸を太上老君の口元に突き出した。
申公豹が。あの申公豹が「あーん」なんて。これほど幸せなことはない。
これが、しいたけでさえなければ。
「うそ…」
「何が嘘ですか。ほら、口開けてください、食べるんでしょう?」
「う、やっぱり…無」
「老子。」
名前を呼ばれて、もう後戻りのできなくなった太上老君は意を決してしいたけを口の中に入れた。
咀嚼するのは本当に嫌だったので、そのままぐっと飲み込んだ。
「感触が嫌なだけで、味は大丈夫なんでしょう?」
「…でも、…やっぱりむり……はぁー…ごちそうさ」
「はい、次どうぞ。」
「!」
一切れ食べたから、と食事を終えるつもりだった太上老君だったが、
申公豹がまた箸を突き出してきたので、それは叶わなかった。
「…こうすれば、食べてくれるんでしょう?それとも私の料理、嫌いですか…?」
「そ、そんなわけないけれど…」
っていうか絶対確信犯だよね!普段そんなこと口が裂けても言わない癖に!
とは思いながらも、目の前のしゅんとした申公豹の表情に騙されそうになる。
いや、いっそ騙されてしまいたい、と太上老君は思った。
目の前の皿には、少なくとも4切れしいたけが乗っているのである。
ぱく、とまた一口、口の中に入れた太上老君を見ながら、申公豹は小さな箱を取り出して机の上に置いた。
「全部食べきったら、これ、あげてもいいですよ。」
こつん、と箱を指先で小突いて、申公豹が言った。
それを見た太上老君の目が、嘘のように輝きだした。
「申公豹、それ、」
「…ないしょです。」
それは雪が舞い始めた、バレンタインの夜のことである。
太上老君と申公豹、バレンタインの食卓にて
3月分 *現代パロ
3月。もうすぐ春がやってくるが、今日はまだ寒い。
脱力してシーツに投げだした身体を起こす。
隣にはまだ目元を赤く染めて情事の痕を色濃く残した細い体があった。
大きな群青の目はしっかりと伏せられている。久しぶり過ぎて加減ができなかったようで、気を失わせてしまったのだ。
反省しながら、シーツに散らばったままの白金の髪を手櫛で少し整えて、私はベッドを離れた。
電子レンジで蒸しタオルが作れるんですよ、と申公豹が言っていた気がする。
ぼんやりした頭でそんなことを思い出して、折角だからそれで申公豹の身体を拭こうかな、と考えた。
「…えーと、なんて言ってたっけ…。とりあえずタオル濡らす…?」
リネンからタオルを出してきて、水道の蛇口をひねる。
よくわからないのでとりあえずボトボトに濡らして軽く絞ってからレンジの中に入れた。
「…時間。…。…まぁいいか、適当で。」
本当に適当に時間を決めてスタートボタンを押した。
あまりに家事をしないので、電子レンジを使っているだけでも何となく家庭的なことをしているような気になってしまう。
ボーっとしているうちに電子音が鳴った。
「よっ…――――っあ、っつ…!」
どうやら熱し過ぎたらしく、蒸しタオルは予想以上に熱かった。
ガタ、と大きな音を立ててしまったので、申公豹が小さく呻いた。が、どうやら起こしてしまったわけではないようだ。
一息ついて、ベッドに戻る。
なんとか熱いから温かいに変わった蒸しタオルを、横たわったままの申公豹の肌にあてた。
「ん…」
鼻に抜けるような声がして、ぴくりと身体が強張る。
まだ熱かったか、と焦る。
けれど、一瞬強張った体は徐々に弛緩し、表情も少し柔らかくなった。どうやら心地いいらしい。
肩、腕、指、白濁の散った腹、と拭っていく。
なんだか変な気分になってくるけど、そこは我慢我慢…。
さて、脚に取り掛かろうかと片足を持ち上げたところで、申公豹が体をよじった。
「、…ん…ぅー…?」
小さく呻く声がして、目蓋がゆっくりとあげられる。
瞬きを数度繰り返している申公豹に声をかける。
「気がついた?」
「はぃ、……!?」
掠れた声で返事をした後、私のほうを見た申公豹は、恥ずかしかったのか、
片脚を抱え上げられた自分の恰好を見て顔を真っ赤に染めた。
同時に急いで逃げそうになった体を何とか踏み止まらせる。
「な、何し、」
「大丈夫、大丈夫、拭いているだけだよ。」
「じ…自分で―――っい、た…」
「身体しんどいでしょう?私がやるから、ゆっくりしてて。」
でも、とまだ何か言いたげな申公豹の頭をポンポンとなでる。
タオルを脚にあてて拭き始めると、申公豹はおとなしく体を横たえた。
唾液や精液で汚れてしまった所を、丹念にぬぐっていく。
「老子、タオル…」
「ん?ああ…蒸しタオル。教えてもらったからやってみたんだけど。ぬるい?」
「いえ、丁度良いです…。ただ、」
「ただ?」
「いえ、電子レンジ使えたんですね…」
「申公豹…」
至極真面目にそう言うものだから、脱力してしまった。
たしかに家事何にもしないけど、さすがに、電子レンジは扱えマス…。
「冗談ですよ。」
「いや、真剣に使えないと思ってたでしょ。」
「…まぁ、…はい。」
ふふ、と笑いだした声に、つられたように笑った。
太ももから爪の先までゆっくりゆっくり時間をかける。
白くて肌理の細かい肌はいつまででも見つめていたいと私は思うのだけれども、
見られている本人は堪らないらしく、恥ずかしそうに何度もこちらを見てくる。
「あの…ま、だですか…?もういいですから、早く、」
まだ、拭き終らないんですか。早く、終わらせてください。
そう言う意味だとわかってはいるのだが、いかんせん先ほどの痴態がちらついてあらぬ方向に解釈が飛んでしまう。
「…そんな可愛いこと言わないで。申公豹。」
「?…なにがですか…?」
かわいいかわいい恋人は、私の様子に気づかない。
この日は申公豹の体を拭き終わるまで理性を保つのが本当に大変だった。
太上老君と理性と申公豹
4月分 *過去捏造
白い道着を着た身体が自室から出てきて二歩、三歩。
今しがた起きたばかりの私は、その出てきた愛弟子に声をかけようと口を開いた。
「おはよ、」
う、を紡ぐ前に身体が動いた。
申公豹の体が、ぐらりと傾いだからだ。
倒れそうになった身体を支えて、顔を覗きこんだ。
「っ大丈夫?」
「…なんでもありません。すこし、だるいだけです。」
抑揚のない声で申公豹はそう告げた。
少し前に仙界に迎えいれたこの愛弟子は、あまり感情の起伏がない。
覗きこんだ顔は少し赤かった。
熱があるのかと思い、額に手を伸ばす。
すると、身体をこわばらせた申公豹は首を後ろにのけぞらせて私の手を避けた。
「…大丈夫ですから。」
この子は人との接触に億劫だ。
身体を支えるために回された私の腕にも、居心地が悪そうに身体を捩った。
「熱があるんじゃないかい?」
「大丈夫です。」
「大丈夫なら倒れたりしないよ、申公豹。」
「倒れてません。」
「今倒れそうになったでしょう?」
私が困ったように眉を寄せると、申公豹も少し眉を寄せて視線をずらした。
不安そうに揺れた瞳が再び私を見上げてくる。
まるで私の顔色をうかがっているようだ。
なんだろう?
「大丈夫、ですから…」
先程より、小さくなった声がそう呟いた。
あれ、もしかしてこの子。
強がってるんじゃなくて、私に心配かけないようにしてるだけなのか?
「…ねぇ申公豹。そんなに悩まなくってもいいよ。その…。…心配、かけていいんだよ?」
ダメもとで思った事を告げてみると、申公豹が、ぱっと顔をあげた。
少し驚いたようなその表情をみて、あぁ図星だったんだ、と思った。
そんなこと気にしなくていいのに。
私は今、君の親みたいなものなんだから。
私は何も困らないし、それに君はもう独りじゃないんだから。
「おいで、横にならないとダメだよ。」
「でも…」
「悪化したら、もっと心配するよ?私は。」
私の言葉に口をつぐんでしまった彼は、じっと私の顔を見た。
「おいで。」
もう一度そう告げて、私は彼に手を差し出した。
たっぷり悩んだ後に躊躇いがちに伸ばされた白い指先を掴んで、私は彼の寝室に入った。
*
「うーん、風邪かなぁ。」
「…そうですか。」
大人しく布団にもぐりこんだ申公豹は興味がなさそうに言った。
もう少し、自分のことに関心を持ってほしいんだけどなぁ。
発熱とだるさ以外に症状はないようだった。取りあえずストックしてあった風邪薬を飲ませた。
あー…風邪のときって何したらいいんだっけ?
自分が看病してもらった時の事など彼方の記憶過ぎて思い出せるわけもない。
あ。何か食べたほうがいいのかな。お粥とか…だめだそんなもの作れない、そもそも料理した事ないし。
あ。果物、ならあったかな。
「ちょっと待ってて。」
彼にそう告げて、私は台所に向かった。
私は殆ど何も食べないけれど、道士になりたてのあの子には、
慣れるまで人間の時と同じように食べろと言ってあるから、何かしら食料がある。
流石にナマグサはないけれど、その分野菜と果物は多い。
私は林檎とナイフを手にとって、寝室へ戻った。
「林檎取ってきた。」
「…別に、いいですよ、そんなの。」
「まぁまぁ、何か食べたほうが体力付くよ。」
「……剥けるんですか?」
「ん?あー…うん、多分。」
愛弟子のもっともな指摘に適当に返事をした。
正直、林檎なんか剥いた事がない。
どうするんだっけ、くるくるっとやるんだよね。えーっと…。
えい。
「「あ。」」
申公豹と私の声が重なった。
サク、と刺さったのは林檎ではなく自分の指だった。
みるみる溢れてくる血液に取りあえず林檎が汚れないように避難させてティッシュを探す。
周囲を見まわして目的の物が無い事に気づき、台所に戻ろうと立ち上がりかけた私の腕を、申公豹が掴んだ。
振り返って、指先に走った感覚に目を開いた。
「ん、」
血まみれの私の指先は、申公豹の口腔内に納まっていた。
赤い舌がゆっくりと指を舐めていく。
私は吃驚して、しかし言葉を発することも指先を引っ込めることもできなかった。
風邪のせいで彼の口腔内は驚くほど熱い。
傷口まで辿った舌が動くのをやめ、きゅぅと血液を吸い上げる。
子どもの様に無垢で、それでいて何とも言えない色気を含んだその動作に、かっと顔が熱くなった。
程なくして、申公豹は私の指を放した。
含んでから放すまではほんの数秒。しかし私には何分にも何十分にも感じられた。
顔の火照りが、まだ引かない。
「…す、みません…あの…」
絶句している私に、申公豹は申し訳なさそうにそう呟いた。
また大きな瞳が、不安そうに揺れている。
「あの…一度だけ、してもらったことが、あって…。ハハオヤに…。」
ふっと、一瞬瞳を曇らせて、申公豹が言った。
彼はたまに母親の話をするのだけれど、その時はいつも表情が沈むか、全くの無表情になる。
何か理由があるのだろうけれど、まだ聞く時ではないと思った。
伏せた目を縁取る白金の睫毛が震えているのに気付いて、私は彼が嫌がらないように一度だけ頭を撫でた。
「ありがとう。」
微笑んで礼を言うと、申公豹は少しだけ表情を崩して、私が撫でた所に手をやっていた。
「あー…ごめんね、林檎。無理みたい。技術的に。」
「別にいいです。……置いといてくださったら、齧って食べます…。」
「ん、わかった。」
じゃあおやすみ、と声をかけると、申公豹は頭の上まで布団をかぶった。
私の指先には、まだ彼の口腔内の感触が残ったままで、
まだ傷の癒えない指先と布団の向こうの申公豹を交互に見つめてどこか落ち着かない心を持て余していた。
心臓の鼓動が速いのは、久しぶりに出血をした所為、だよね?
風邪引き申公豹と介抱する太上老君
5月分 *現代パロ
――…ポン……ピンポーン。
「ん…、…?」
ある日曜日の午前11時。申公豹は2度目のインターホンで目を覚ました。
眠たい目を擦り、だるい身体を何とか起こしてインターホンに答えた。
「はい…。」
「こんにちはー、新聞の集金でーす!」
ああ、そういえば今月はまだ払ってなかったかと申公豹はぼんやりと思った。
すぐ行きます、と少し嗄れた声で答え、財布を持って玄関へ向かう。
扉を開くと明るい光が目に飛び込んできて、あまりの眩しさに申公豹は顔をしかめた。
続いて目に入ったのはもちろん新聞の集金の人。いつもやって来る、自分より少し年上の青年だ。
「こん、に…ち、わ…」
いつも元気で明るい青年なのだが、今日は語尾が詰まった。こころなしが顔が強張ったようにも見える。
申公豹は不思議に思って小首を傾げると、青年ははっと我に返って笑顔を作った。
「す、すいません…えーと、****円お願いいたします。」
「はい」
お金を出そうと財布を開ける。
その間もどこか青年は挙動不審であった。
いつもはこんなことは無いのに何なのだろうと申公豹は不審に思ったが、
特に気にせずお金を渡そうとすると、後ろからバタバタと廊下を駆ける音がして振り向いた。
「…老子?」
そんなに急いで何事ですか、と問うより先に太上老君は申公豹の持っている財布をひったくって、申公豹を廊下側へ追いやった。
「ちょ…なんなんですかっ、まだ払い終わってな…」
「うん、あのね、とりあえず中入ってて、私が払っておくから。」
「はい?意味がわか…」
「いいから早くっ」
「…分かりましたよ。変な人ですね。」
太上老君のわけのわからない行動に、申公豹は怪訝な顔をしながらも廊下を歩いて部屋へと戻った。
太上老君はその姿が完全に玄関から見えなくなったのを確認して、ゆっくりと青年の方へ向き直った。
「はい、これ丁度。」
にっこり、と太上老君は微笑んだ。
しかし、彼は自分の気を許した人にしか本当の笑顔は向けないし、作り笑顔の安売りもしない性質だ。
一見卒倒しそうなほど綺麗な微笑みは、どこか凄味を持っていて青年は背筋に冷や汗が流れるのを感じて息をのんだ。
その笑顔の裏を正確に表現するとしたら次の様な言葉になるだろう。
『今見たものは一切記憶から消し去ってさっさと帰れ』
金の目に見つめられて、青年は逃げ出したくなるのをなんとか堪える。
「あ、ありがとうございました!今後とも**新聞を御贔屓に…っ」
なんとか営業スマイルを貼り付けてお礼を言うと、青年は足早に申公豹の家を立ち去った。
がちゃりと扉を閉じた太上老君は、ふぅと一息吐き出した。
「…一体何だったんですか?」
すぐに後ろから声がかかる。
振り向くと部屋から出てきた申公豹がむっとした顔で太上老君を見つめていた。
太上老君といえば、そんな申公豹を見て、はぁあと大きくため息を付いて片手で顔を覆った。
「…申公豹。君、今の自分の格好わかってる?」
「は…?―――あ。」
指摘されて己の格好を確認した申公豹は、一瞬にして耳まで顔を赤に染めた。
それもそのはず。
申公豹の今の格好といえば、昨日、太上老君が彼が風邪を引かないようにと申し訳程度に着せた白いシャツ、ただその一枚だった。
幸い、太上老君のシャツだったので丈が長く、ボタンもいくつか留めてはあった。
それでも首元のキスマークは隠せていないし、丈が長いと言っても局部がギリギリ隠れている程度だ。
現状を把握した申公豹は、今更何の意味もないとは知りながらも、慌てて裾を引っ張った。
「はぁあー…こんな可愛い申公豹を…まさか赤の他人に見られるなんて、本当にショックだ。」
言葉通り落ち込みを隠しきれずに太上老君はそう言った。
一方の申公豹はといえば。
「…こんな、何があったかバレバレの格好を見られたかと思うと、私も本当にショックですよ…」
穴があったら入りたい、と赤い顔をさらに羞恥で染め上げて、大きく大きく溜息をついたのだった。
新聞集金と彼シャツ申公豹
6月分
梅雨に入った。
毎日じめじめしてる。今日も、もちろん雨。
これじゃ散歩も億劫だ、と禁城の一室から窓を見上げて溜息をついた。
すると、寝台に腰掛けて本を読んでいた主人が一言、
「散歩に行きましょうか。」
と笑った。
***
「え、でもこんな雨じゃ…」
「いいじゃないですか、たまには。行きましょう、黒点虎。」
「ちょ、申公豹…!」
思い立ったが吉日…とかいうやつ?申公豹はスタスタと部屋を出て行ってしまう。
ボクはあわててその後ろ姿を追っかけた。
「乗らないの?」
「ええ。今日は歩きましょう。」
どこか鼻歌でも歌いだしそうな調子で、申公豹は城門の外へと行ってしまう。
もちろん、傘なんかもってない。
「濡れちゃうよ!」
「濡れてしまいますねえ。」
「ますねえって……」
それがどうかしましたか?とでも返してきそうな申公豹に、ボクは上手く言葉を返せなかった。
気が遠くなる程一緒にいるけど、申公豹の行動は時々意味不明だ。
もしかしたら意味なんてないのかもしれない。
しとしと降る雨は心地よくもある。
肌が痛いほど強いわけでもなく、弱過ぎて鬱陶しいわけでもない。
それでも城から距離が離れていくごとに、ボクの体は雨を吸い込んで重くなっていく。
並んで歩いている申公豹を見れば、もう髪から水が滴っている。
白い頬を見ていると、夏なのにとても寒そうに見えた。
「ねぇ、申公豹…どこまで行くの?」
「そうですね、取りあえず全身びしょ濡れになるまで歩きましょうか。」
「えぇえ!?何のために!」
「何のためにって…暇つぶしです。」
あっけらかんとそう言われると、もうなんかどうでも良くなってきた。
結局ボクは申公豹に付いていくという選択しか選ばないのだから、考えても無駄だ。
申公豹の口元は笑みの形をしているから、きっと楽しいんだと思う。
楽しいのなら、それでいいや。
人通りもまばらな道を、連れ添って歩く。
たまに出会う人々は、決まってこちらをいぶかしんだ様な目で見ていく。
そりゃそうだ。霊獣連れた道士が雨の中をびしょ濡れになって歩いているのだから。奇妙な事この上ない。
誰もボクの隣を歩く申公豹が、最強の冠を持ってるなんて思いもしないだろう。
そう考えると、自分だけがその事実を知っていることがとても嬉しかった。
また、隣を歩く申公豹を見る。
もう服も大分濡れてしまって、雑巾みたいに絞れそうだ。
白い服は少し透けていて、なんだかドキドキしてしまう。
呆けたように申公豹を見続けていたので、向こうも視線に気づいたのか、群青の大きな眼がこちらを見た。
「…どうかしましたか?」
雨で顔に張り付いた髪を払いながら、申公豹が言った。
雨音にも消されずに良く通るその声は、なんだかいつもよりずっと甘く聞こえた。
「う、ううん…なんでもない…」
なんだろう、なんだか変な気持ち。
梅雨だからかな。
もやもや。
だってなんだか申公豹が、いつもより綺麗にみえて…
うわ、だめだ、なんか…抱きつき、たい。
「黒点…――ぅわっ…」
どうしよう、抱きついちゃった。
どうしよう。
どうしよう。
「ど、どうしたんですか。黒点虎。」
「え、いや…えーっと…」
何にも考えてなかった。
取りあえず離さないと。ボクが抱きついてたら申公豹重いし。
いや、頭ではわかってるんだけど!
大きな眼を少し見開いて、申公豹がボクを見ている。
あぁだめだ、やっぱりボクはキミのことが。
「すきだっ」
…ああもう、何言ってるんだろうボク。ギャグだよこの状況。
言った傍から後悔しまくりな顔をしたボクに、申公豹はぷっと吹き出して笑いだした。
そりゃあもうお腹抱えて。
「…申公豹、笑い過ぎ……」
「だ、だって…くすくす…黒点虎がっ…」
「〜〜もう…っ」
どれくらい笑っていたのだろう。息も絶え絶えになってきた申公豹は、やっとまともにボクの顔を見た。
まだ少し笑ったままの顔で、ボクの額を撫でる。
「知ってますよ。」
ボクが申公豹を好きな事くらい。
というか、これまでにも何回だって、何百回だって好きだって言っているのだから、知ってくれてなきゃ困る。
「何でまたいきなり。」
「…なんとなく。言いたくなったから。」
「なんですかそれ。」
申公豹が、また笑いだした。
恥ずかしくってたまらない。
「も、もう帰ろ!」
「おや、私はまだ抱きついてもらっていても構いませんが。」
「もういいの!いいから早くっ」
「はいはい。」
びしょ濡れの体を、背に乗せて駆けだした。
流石にまた並んで歩いて帰るほどの精神的余裕がなかった。
背中の上の申公豹が、まださっきの事を引きずっているのか、思い出し笑いをしながら、呟いた。
「ああ、今日は本当にいい暇つぶしができました。」
雨の中の申公豹と黒点虎
7月分 *現代パロ
「ああ、もう。またですか?」
「ん…?ああ、ごめんごめん。」
老子はとんでもなくズボラだ。
お風呂から上がると身体はちゃんと拭いて出てくるのに、髪には意識が向かないのか、まだ水が滴っていても放置している。
エアコンの効いた部屋にそんな状態でいたら風邪を引くというのに。
何度言っても直らないので、結局見かねた私が髪を拭くことになるのだ。
最初のうちは本当に髪を拭くのを忘れていたみたいだが、最近はそこの所がどうも怪しい。
だって。
「はい、お願い。」
そう言って、実に嬉しそうな顔でタオルを差し出されるのだ。
…私に拭かせるためにわざと髪を放置したまま出てきているのではないだろうか、この人。
私は、はいはいと呆れながら返事をして、差し出されたタオルを受け取った。
そこまで分かっているなら拒めばいいではないかと言われてしまいそうだが、実のところそこまでこの行為が嫌いではない。
タオルで毛先の水分を取って、髪を一房持ち上げてみる。
そこまで手入れをしていないのに枝毛一つない髪は、今は濡れて浅葱より濃い色をしている。
君の髪色の方が珍しいよ、と老子は言うけれども、私は老子の方が珍しいと思う。
銀色の髪はたまに見かけるけれど、浅葱色の髪は生まれてこのかた老子しか見たことがないのだから。
「…どうかしたの?」
じっと見つめていると、座って後ろを向いている老子が、不思議そうにこちらに視線を向けてきたので、私は慌てて髪を拭く作業に戻った。
「申公豹?」
「…なんでもありません。」
「?…そう。」
老子は振り向くのを止めて、前を向いた。
顔が見えなくなると、気付かれないようにホッと一息ついて、今度はドライヤーを取りに行った。
「…熱かったら言ってくださいね。」
「うん。」
美容院じゃないんだから…と自分で思いながらも、なんとなく聞いてしまう自分に苦笑した。
暗い色をしていた髪が、乾いて本来の色を取り戻していく。
老子の髪は柔らかくて触り心地がいい。
指の間にふわふわとした感触を感じながらドライヤーを当てていくと、やっと粗方の髪が乾いた。
かち、とドライヤーのスイッチを切る。
それまでモーターの音が煩かったせいもあって、部屋の中がとても静かに感じた。
「…終わりましたよ。」
後方から老子の顔を覗き込む。
すると、両手で頬を挟まれた。
「……なんです。」
「んー?かわいいなぁと思って。」
「…………。」
「そ、そんな呆れた顔しなくても…。」
老子が良く分からない事を言い出したので、頬にあてられた両手をべりっと剥がした。
どこか名残惜しそうな顔をした老子が、唇を開く。
「またよろしくね?」
そう言って、今度は笑う。
「いい加減、髪くらい自分で乾かしてください」
本音の半分を、つっけんどんに言うと、老子は「えー」と不満そうに声を漏らした。
髪の乾き具合を確かめている老子の背中に、私は少し距離を置いて言葉を掛けた。
今度は、本音の残りの半分。
「…まぁ、気が向いたらまたやってあげてもいいですよ。」
がばっと振り向いた老子に、私は ふふっと笑みを送った。
ずぼら老子と世話焼き申公豹
8月分
仄暗い部屋で申公豹は目を覚ました。
瞼も身体も重くて仕方ない。
ダルさに声を漏らして手を額に当てると、低い声が部屋に響いた。
「…目が覚めたか?」
聞きなれた声。
顔を確認するまでもなく、殷の太師、聞仲であった。
「聞仲…ここは…貴方の部屋ですか…?」
「ああ。廊下でふらふらしていたから運んだ。…倒れられても迷惑だからな。」
くらくらする頭を押さえながら、申公豹は寝台から体を起こした。
視界がぐわんと揺れて、少し気分が悪い。
しばらく目を閉じて、自分が今ここに至るまでの経緯を思い出していた。
明るい部屋。高い声。二対のグラス。揺れる液体。
「…それは、すみませんね。わざわざ…――っ痛…」
「…。」
ぶっきらぼうなようで、心配しているのだろう。聞仲は頭を押さえる申公豹の傍に歩み寄ってきた。
眉間にしわを寄せたままの申公豹は、2、3度深呼吸をして、瞼を開いた。
顔はまだ、俯いたままだ。
「どうした?」
「いえ…お恥ずかしい話ですが少し飲みすぎましてね、頭が…」
「は、お前でも酔うんだな。」
「おや。私、あまり強くはないですよ?妲己が放してくれないものですから、つい…」
息を漏らして笑う聞仲に、申公豹も苦笑しながら返した。
もう何時間前か分からないが、自室で休んでいたら丁度妲己がやってきて、いい酒が入ったから飲まないかと誘われたのだった。
彼女が言うとおりそれはとても旨い酒で、妲己の長話を聞きながら飲みすぎないように気をつけてはいた。
しかし、笑い上戸の彼女はテンションを上げたままどんどん申公豹に酒を注いでいくものだから、断わりきれずに付き合っていたらこの通りだ。
「無理にでも断れば良かったんですけどね、タイミングが……あ…すみません、部屋に帰ります。」
もう夜中なのに、聞仲の寝台を占領してしまっていることを思いだして、申公豹はベッドから足を出した。
まだ少しふらつくが、歩けないほどではない。
このまま部屋に帰って眠れば、明日には治っているだろう。
扉に身体を向けて、一歩足を踏み出し、二歩目を歩こうとした時だった。
「待て。」
がし、と聞仲に腕を掴まれる。
申公豹は、何か用ですか、とぼんやりした目で見返した。
「酔ったついでだ。一杯付き合え。」
帰ろうとしているのにそんなことを言い出す聞仲に、申公豹は一瞬眉を寄せる。
「は?嫌ですよもう、」
「運んでやっただろう。」
「それとこれとは…」
「ほら、」
言うが速いが、酒を取りだしてきた聞仲は、ずいと申公豹の前に盃を押しつけた。
透明なその液体は、部屋の少ない明かりを反射させてキラキラと光っている。
「う…はぁ。一杯だけですよ…。」
「ああ。」
そう言って、受け取ったのがそもそもの間違いだったのだが、過ぎてしまった事を悔やんでも仕方がない。
く、盃一杯を呑みきらないうちに、申公豹は顔をしかめた。
「――な、んですこれ…!?…キツ…」
「そうか?」
「なんて酒飲んでるんですか…こんなの飲めないですよ…」
酔っているのにさらに酒を、しかも予想以上にキツいものをあおってしまって、視界がぐわんと揺れた。
崩れそうになった身体を、聞仲が支える。
暗がりの中で見える申公豹の目元は、ほんのりと朱く、いつもの大きな瞳は酔いで半分ぐらいになっている。
潤んだ群青と目元の朱に、妙に引きつけられた。
ふらふらの身体は、聞仲が腕を軽く引けば軽々とこちらに転がり込んでくる。
申公豹がまだ手に持ったままの盃を取り、聞仲が低く囁く。
「飲めないなら、…飲ましてやろうか。」
「は?え…、――っ…」
ぐっと盃の酒を呑み込んだ聞仲は、そのまま申公豹に口付けた。
申公豹には焼けるように熱く感じるその液体が、喉の奥まで流れ込んでくる。
息苦しいのとアルコールのキツさで、目尻にうっすらと涙が浮かんだ。
「美味いだろう?」
「はっ…わから、ないですよ…ん、んっ…や…もう、無…」
「徳利にはまだまだあるぞ。」
「一杯、だけって…言っ…!ちょっと…いいかげんに…っぁ」
がくりと、申公豹の片膝が崩折れた。酔いが酷くて、もう立っていられない。
とうとう床にへたり込んでしまった申公豹を、聞仲が抱え上げる。
「今夜は泊っていけ。」
「な、んで…部屋、帰るんですよ、私はっ…」
「もう帰れんだろうが。こんな状態で。」
折角寝台から出てきたのに、聞仲の手でまたシーツの上に逆戻りだ。
帰れないもなにも、貴方のせいでしょうが!と非難しようとした口を、噛みつくように塞がれる。
口内を荒らした舌が銀糸を引いて出ていく。
いいようにされるのが気に食わなくて睨みつけようとするが、またぐわんと目が回る。
身体は鉛の様に重いし、意識が霞んでくる。
「…さて、そこでだ申公豹。」
「…?…っ、変なとこ触らないでください!」
身体をまさぐりながら話しだす聞仲の顔はどこか意地悪だ。
這う手を避けようと申公豹は身体を捩るが、それがまた聞仲を煽っていた。
「宿代だ。抱かれていけ。」
「はぁ…っ?なんですかそれ…っぅ、く…」
まさぐる手が、一層正確さを帯びてくる。
抵抗すればするほど、頭はがんがんと痛むし、視界は回る。
あまりの不快感に、このまま大人しくしていた方が体調はまだマシになるのではないだろうかとすら申公豹は思った。
気分は悪いのに身体は快楽を追い始めているというのは、なんとも表現しにくい感覚だった。
「も…ぁ、は…っ…高い、宿代ですよ、まったく…っ」
「ふっ…」
申公豹の悔しそうな声に、聞仲の笑い声が重なった。
アルハラ聞仲とふらふら申公豹
9月分
*この色は林檎嬢の幸福論の歌詞引用部分です
本当のしあわせは目に映らずに
案外傍にあって気付かずにいたのですが
例えば掛けられているタオルケット一つ、君の優しさが詰まっているのだと思う。
机に突っ伏したままいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
顔を上げると数時間前に飲んでいたはずのお茶が半分ほど残ったまま置いてあった。
「おはようございます。」
もう夕刻ですけれどもね、と少し皮肉った声が斜め向こうから聞こえた。
結わずにおろしたままの白金の髪を揺らして、申公豹が向かいの席に腰掛ける。
小さなお盆を持っていて、そこには急須と新しい湯呑が二つのっていた。
「これ、飲むからいいよ。」
まだ半分残っているし、もったいない。
そう思って断ったが、申公豹は何も言わずに新しいお茶を新しい湯呑に注いでくれた。
「冷めているでしょう?」
「それは…まぁ。そうだけど。」
「どうぞ。」
「ありがと。」
手渡された湯呑を受け取った。
指先が軽く触れ合って、すぐに離れた。
「…いつから寝てた?」
「珍しく午前中に起きてきたと思ったら、お茶飲んでる最中にすぐ寝てましたから…11時くらいですかね。」
「そう…。」
だとしたら5時間程寝ていたことになる。
受け取ったお茶を口に含むと、ふわっといい香りが鼻に抜けた。
「申公豹は何をしていたの?」
「え?」
ふと気になってそう問うと、申公豹はきょとんとした顔でこちらを見た。
何か変な事を言っただろうかと思って小首を傾げると、申公豹は小さく笑った。
「ふふ、珍しいですね。」
「え、なんで?」
「いつもそんなこと聞かないじゃないですか。」
「そうだっけ?」
「そうですよ。」
そう言われて過去を振り返ってみる。
…確かにあまり聞いたことは無かった様な気もする。
でも今日はなんだか、彼の話が聞きたいのだ。
声を聞いていたいのだ。
「そんなに話すようなことはしていないような気もしますが…」
「どんな話でもいいよ。」
「そうですねぇ…。」
そうやって、申公豹は今日私が寝ている間の出来事を話し始めた。
本を読んでいたとか、掃除をしていたとか、本当にそんな何気ない話ばかりだった。
けれど、視線を動かして、時に嬉しそうに、時に少し怒りながら話す申公豹を見ているのは飽きがこなかった。
彼の声はとても心地がいい。
また眠ってしまいそうなくらいに。
「――…で洗濯物を取りこんだのですがすごく暑くて…ああ、でも…来週から気温が涼しくなるそうですよ。」
「へぇ、そうなんだ。」
「もうすぐ秋ですからね。また紅葉を見るのが楽しみです。」
そうやって申公豹が窓を見た。
まだまだ気温は暑いが、空は秋めいてきているような気がした。
私はもう季節の変わりなど楽しめなくなってしまったけれど、申公豹は紅葉も雪も桜も、いつも楽しそうに見ている。
綺麗なその景色を、私に教えてくれる。
そうやって彼の話を聞いていると、世界はまだ美しいのだと思えるのだ。
「ねぇ、申公豹。」
「はい?」
「ありがとう。」
話の脈絡も何もかも無視して、私はその言葉を彼に送った。
申公豹は群青色の目を丸くしてこちらを見ていた。
銀色に縁取られた瞼が、幾度も開いたり閉じたりした。
「…どうしたんです?いきなり。」
「ん。いや…言いたかっただけ。」
「なんだか今日の老子は変な感じですね。」
「そうかな?」
「そうですよ。」
そうやって、申公豹はまた少し笑った。
はにかんだようなその笑顔が、私にはとても愛おしく思えた。
そうつまりは、
君が其処に生きているという真実だけで
幸福なのです。
老子の幸福論と申公豹
10月分
抱きしめた体はひんやりとしていて、秋風の中を駆けてきたのだろうと容易に推測できた。
乾燥した風を全身に受けて、髪を少し揺らして、あの突き抜けるように青い空を駆けたのだと。
「いたい、ですよ、老子。」
「うん。」
返事だけして、力を緩めようとしない私に、申公豹は呆れたように溜息をついた。
居心地悪そうに身体を動かす様子がかわいくて、つい笑いそうになってしまう。
白金の細い髪に顔を寄せて、すんと息を吸うと懐かしい香りがした。
「あまい。」
「…何がですか。」
「…申公豹が。」
「はい?」
あまいにおいがする、と犬みたいに匂いを嗅いでいると、「やめてください気持ち悪い」と焦った声が降ってきた。
何が恥ずかしいのか、頬を染めて私を見ている。
「や、ですってばっ」
「何にもしてないじゃない。」
「嗅がないでください!」
「いい匂いさせてる申公豹がわるい。」
「なんでですか!」
ばたばた、と一攻防。
最強の冠をもってる道士と三大仙人の一人が何をやっているのだろうかと自分でも思うが、
肩書なんて二人ともどうでもいいので深く考えないことにした。
耳の後ろを嗅いで申公豹の肩がぴくんと跳ねたと同時に、香りの正体がやっとわかった。
「ああ、金木犀、だね。」
甘くて、懐かしい、橙色をしたあの花だ。
あんなに小さな花なのに、こんなに香りをはなって、相手にまとわせる。
私は唐突に腹が立って、細い体をまたぎゅっと抱きしめた。
そしてまた、すんと息を吸い込んだ。
「も、っ…なんなんですか!」
「べつにー」
いつもの君の匂いがしない、のが、いやだ。
だから君の匂いを探すんだ。
金木犀なんかより、ずっとなつかしくて、安心する、君の。
花の香りを纏う弟子と、その師匠
11月分 *過去捏造
「視界を閉ざすのですか?」
申公豹が太上老君から手渡されたのは、黒い鉢巻のようなものだった。
今日はちょっと違った修業をしよう、と太上老君が言ったのだ。
「うん。」
「…なんでまた…。」
「まぁ、いいからちょっと着けてみなよ。」
「はぁ…。」
不審に思いながらも、言われるがままに申公豹は鉢巻きで目を覆った。
当然のように何も見えない。昼ならまだしも、今日はいつもと違って夜中に修行しているので、なおさらだ。
「それで私を探してごらん。」
「え…」
そう、一言残して、目の前に居たはずの太上老君の気配がぱっと消えてしまった。
頼りになるのは聴覚と触覚ぐらいだ。
「老子…?」
名を呼んでも応える声は無い。
ここは森の中だから、葉の擦れる音や、鳥の声が微かに聞こえてくる。
なるほど、感覚が研ぎ澄まされてきた。
今日はこうゆう、修行なのだろう。
申公豹は足を一歩踏み出した。
地形が分からず、次の一歩を踏み出すのが億劫だ。
それでも、憶えている景色と、研ぎ澄まされた感覚を頼りに、歩を進める。
太上老君の気配は何処にも感じられない。
おそらく返事をする気はないはずだから、名前を呼んでも無駄だろう。
しかも早く見つけられなければ、修行そっちのけで、太上老君が眠ってしまうかもしれない。
申公豹は先程より早い足取りで、森の中を進んで行った。
葉がざわめく音。
砂利を踏む音。
川の流れる音。
虫の鳴き声。
どれも全て知っているはずなのに、初めて聞くかのように美しく感じた。
手を伸ばしても、何も掴めない。
自分の位置さえ分からない状況は、恐怖であり、また楽しくもあった。
もう30分ほど経っただろうか。
いや、自分が思うほど時間は経過していないのかもしれない。
小さな変化も見落とさないようにとずっと気を張っているので、疲れてしまった。
少し休もうと、一度立ち止まって息を吐いたその時。
「!」
ランプの明かりが灯ったように、世界である一か所だけが浮き上がった。
申公豹はその場所に向かって駆けだす。
もう視界が塞がれていても恐怖心は無かった。
駆けて、駆けて、その光に、手を伸ばす。
「――ふふ、見つかっちゃった。」
ばふ、と手どころか身体ごと体当たりしてしまったその物体からは、確かに太上老君の声がした。
申公豹の頭に、ぽんぽんと手が降ってくる。
ほんの数十分ぶりの感触なのに、それはどこか申公豹の身体に滲み渡っていった。
髪に触れていた太上老君の手が、ゆっくりと目隠しをほどいていく。
暗闇だった申公豹の視界に最初に映ったのは、たとえようのない金色の瞳だった。
ふ、と申公豹は初めて太上老君と会った冬の日を思い出した。
あの日も、冷えきっていた私の目に光をともしたのは、この優しくて強い金色だった、と。
この恐いほどの美しさに、心奪われたのだと。
「申公豹…?」
じっと太上老君を見つめたまま、動かない申公豹を不思議に思って、太上老君が名前を呼んだ。
その声にはっとして、申公豹は視線と、そしてしがみ付いたままだった身体をぱっと離した。
「いえ…。」
「短い修業だったけど、いつもより疲れたんじゃないかな?今日はもう帰ろう。」
す、と太上老君の手が申公豹に差し出された。
申公豹は意味が分からなくて、きょとんと、手と太上老君の顔を交互に見た。
「…なんですか?」
「手、繋ごう。」
「そ、そんなに子どもじゃありません!」
「いいから、ほら。」
もう一度、太上老君は手を差し出した。
白く細い指先が、月明かりに良く映えていた。
申公豹が躊躇いがちに手を差し出すと、太上老君はその指先をきゅっと握って、そのまま固く握りしめた。
冷たく見えた掌は、とても温かかった。
「帰ろう。」
「…はい。」
昔、両親に振り払われたこの掌を、目の前の血の繋がりも持たない彼が、握り返してくれる。
その事実に今更気付いて、申公豹は言いようのない思いを胸に抱き、闇夜を仰いだ。
申公豹と老子でかくれんぼ
12月分
「楊ゼン…?」
「ああ、待っていましたよ、申公豹。」
教主の宮を申公豹は訪れた。
まだ仕事が残っているのか、楊ゼンは書類が散乱した机に座ったままだ。
それでも申公豹の姿を認めると、机から顔を挙げ、柔らかく微笑んだ。
筆を置き、椅子から立ち上がった楊ゼンが申公豹に手を差し出す。
「こちらへ来ていただけますか?」
「…?」
部屋の中で手をつなぐのも…と少し気恥ずかしく思いながらも、申公豹は楊ゼンの手を取った。
案外あっさりと納まった申公豹の手に、楊ゼンは意外そうに眼を開いた。
「な、なんです…貴方が手を出したのでしょう…っ…。」
「あ、いえ…そうなんですけども…」
もうちょっとゴネられるかと思ってました…と笑う楊ゼンに、申公豹がぱっと手を離しそうになった。
それを寸での所で楊ゼンが掴みなおす。
「すみません、もう笑いませんから…」
少し機嫌を損ねてしまった申公豹は、楊ゼンから視線を外してしまったが、その手を振りほどくことは無かった。
手に当たるグローブはとても冷たくて、外の寒さを物語っていた。
その冷えたグローブを、楊ゼンが両手で包みこむ。
「…寒い中をわざわざ来てくださって、ありがとうございます。」
「…。…いえ…。それに…」
「…?…それに?」
「…今日、伺うの…楽しみに、していましたから…」
そう言って、申公豹は照れを隠すように俯いた。
数週間前、申公豹のもとに哮天犬が一匹でやってきた。
口に手紙を咥えていて、それには今日の日付と誘いの文句が短い言葉でつづられていた。
二人は仙人界の教主と仙人界のはぐれ者という立場上、あまり表だった交際をしていない。
それに、申公豹から宮に行くことはあっても呼ばれるというのはなかなか珍しい出来事だったので、申公豹は楊ゼンに会いに来るのをとても楽しみにしていたのだ。
俯いたままの申公豹に、楊ゼンは小さく笑みをこぼしてもう一度手を引いた。
「そう言ってくださって光栄ですよ。…こっちです。」
其処は小さなドームだった。
15人くらいが定員いっぱいといった感じのこじんまりとした建物。
楊ゼンに引かれて入り口をくぐる。
中は真っ暗だった。
「ここは…?」
「僕の息抜き場ってことで、作ってもらったんですよ。」
「息抜き場…?」
パタン、と入り口のドアが閉まる。今度こそ本当の真っ暗闇だ。
それでも楊ゼンは、前が見えているかのようにずんずんと部屋の中を進んでいく。
というより、周りには何も障害物がないように見える。
一体何の部屋なのだろうか。
部屋の真ん中あたりで、楊ゼンが足を止めた。
「…いきますよ。」
「え…?」
ヴン、と低いモーター音がして、頭上がふっと明るくなった。
申公豹は弾かれた様に顔を上げ、息を呑んだ。
満点の星空が、そこに広がっていた。
「天象儀…プラネタリウムです。」
楊ゼンが微笑んでそう言った。
星明かりに照らされる表情は、月光のそれよりもなお柔らかい。
申公豹は言葉も紡げずに、ただただ星の輝きに見入っていた。
プロキオン、ベテルギウス、シリウスの冬の大三角。
オリオン座の3つ星、その斜め右上にアルデバラン。そしてその上の――すばる。
まさに冬の星座の代表達。
「…申公豹?」
動きもしなければ喋りもしない申公豹に、楊ゼンは心配そうに声をかけた。
その声に気付いて、申公豹はやっと星から目を離した。
「本当は、本物を観に行ければ良かったのですが…どうも時間が取れなくて…。」
楊ゼンはそう言うと、申し訳なさそうに苦笑した。
申公豹はその蒼い目をじっと見つめ、そしてやっと口を開いた。
「…いいえ」
「え…?」
「とても綺麗です、こんな、今にも手が届きそうな…本当に、綺麗で…うれしいです…!」
それは楊ゼンが初めて見た表情だった。
申公豹はいつも柔らかく笑うけれど、こんなに感情をあらわにして微笑むのは、本当に初めてのことだった。
それはこの星々が造り上げた幻の様に儚く、凛として、そして美しかった。
天井の星が徐々にその位置を変えていく。
また上を見上げて星に見入りそうになった申公豹のその横顔に、楊ゼンが手を添える。
まだ綺麗な微笑みをたたえたままのその唇に、一つ小さく、愛を送った。
楊ゼンと申公豹と天象儀
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