■2011年 拍手お礼小話■
1月分 *現代パロ
「明けましておめでとうございます。」
以外にも深々と頭を下げてそう言った太上老君に、申公豹は少し面喰って玄関の前で立ち尽くしてしまった。
瞬きを2、3度繰り返した後、はっとなって自分も深々と頭を下げた。
「…お、めでとうございます。」
「今年もよろしくね、申公豹。」
「こちらこそ、老子。」
それは元旦の朝だった。
年末は叶わなかったが、年始の休暇はしっかりもぎ取ってきた太上老君は朝一番
(といっても10時過ぎだが太上老君にとっては十分「朝一番」である)に申公豹の家を訪れたのだ。
「どうぞ。」
「お邪魔しまーす。」
申公豹に促されて太上老君は玄関をくぐった。いつ見ても申公豹の家は広い。
とても大学生が一人で住んでいるとは思えない広さだ。
なんでも申公豹の両親が宝くじで一発大当たりして買ったものらしい。
申公豹の両親を太上老君は見たことがなかったが、
まぁ息子がこれなんだからどっちもかどっちかがすごい美人なんだろうなぁとぼんやりと思った。
「帰らなくて良かったの?」
「なにがですか?」
「実家。」
「ああ…まぁ、大丈夫でしょう。電話はしてますし、また何かの機会に帰りますよ。」
「ふぅん。寂しがってるんじゃないの、お父さんとお母さん。」
「…あなたこそ人のこと言えないんじゃないですか?」
「私のところは寂しがってはいないだろうけどね。まぁ帰るとしたら…」
「帰るとしたら?」
「君を紹介する時じゃないかな。」
そう言って、太上老君はニッと悪戯っぽく笑った。
申公豹は一瞬その言葉が指す意味が分からなくてきょとんとしていたが、すぐに意味を理解してかっと頬を染め上げた。
「じょ、冗談はやめてください!!」
「あんまり冗談でもないんだけどなぁ…」
「老子っ!」
「はいはい、怒らない怒らない。」
ひとしきり笑った太上老君は、玄関からリビングへと入っていく。
もう何回も来ているので、家の構造どころか家具の位置さえ全部覚えてしまっていた。
ソファに座ろうとして、太上老君はセンターテーブルの上に重箱があるのを発見した。
「え、おせちって…もしかして手作り?」
「買って詰めただけのものもありますが…まぁ…はい。」
「すごい!!」
子どものように目を輝かせる太上老君に、申公豹もなんとなく嬉しくなった。
お雑煮も並べて、祝い箸もそろえて、2人して椅子に座る。
ぱか、と重箱のふたを開くと美味しそうな中身が顔を出した。
「すっごい、美味しそう。」
「それは分かりませんけど…。でも貴方がご実家で食べていたものの方が遥かに豪華だったのではないのですか?」
太上老君の家は両親ともに医者だ。きっと豪華なお節料理が並んでいたのではないかと申公豹は思った。
「豪華ではあったけどね。どこかの有名な料亭のやつだったのだろうし。
でも、やっぱり…知っている人の手作りの方が、私には美味しそうに見えるよ。」
ふわりと微笑んだ太上老君に、申公豹は一瞬目を奪われて、静かに微笑んだ。
「では、いただきましょうか。」
「うん。」
実際、見た目だけでなく申公豹のお節料理は味も絶品だった。
おいしい、おいしいと何度も繰り返す太上老君に、そんなに褒めなくてもと申公豹は苦笑した。
「栗きんとん好き。」
「そうなんですか?」
「申公豹は?」
「私はリュウヒが好きです。」
「伊達巻があったら、もっと良かったなぁ。」
「ああ、なるほど。では来年は伊達巻を入れましょう。」
「…。」
「?…なんですか?」
「ううん、なんでも。」
太上老君は満足そうに笑って首を横に振った。
来年も、自分と一緒にお節を食べることは申公豹の中でとても自然なことらしい。
それが分かったのがとても嬉しかったからだ。
「来年、楽しみにしてるよ。」
紅白のかまぼこを口に運びながら、太上老君は幸せそうにそう言った。
老子と申公豹と変わらぬお正月
2月分 *現代パロ
2月13日。
太上老君の家に呼ばれた申公豹は、インターフォンをならした。
しかし何度鳴らしても太上老君は出てこない。
もしやまた人を呼びつけておいて寝ているのかとドアノブに手を掛けると、不用心なことにガチャリとその扉は開いた。
そのまま足を踏み入れ、名前を呼ぼうとしたその時。
ガシャン!
何かが割れたか落ちたかのような大きな音がして、申公豹は慌てて部屋にあがっていった。
「あ、申公豹ごめん。出ていけなかった。」
「…。まぁ…それは…出て来れないでしょうね。これじゃあ。」
へら、と微笑いながらお気楽にそう答える太上老君の現状に申公豹はかなり呆れた視線を送りながらそう言った。
太上老君はキッチンにいたわけだが、物は散乱しているは、良く分からないが焦げ臭いにおいはするはでまさに「惨状」と呼ぶにふさわしい。
もちろん太上老君本人も無傷(?)で済むはずもなく、色んなところが小麦粉やら砂糖やらで汚れていた。
「で、何してるんですか…。」
「チョコ作ろうと思って。」
「チョコぉ?」
なぜチョコを作るのに小麦粉がいるんだ、と頭の隅で不審に思いながらも、チョコを製作しようと思い至った理由は想像がついたのでそのまま口にした。
「バレンタインのですか?」
「そうそう。最近流行ってるでしょ?逆チョコ。彼氏の方から送るやつ。まぁ私たちはその辺微妙な立ち位置だけど。」
「どっちも男ですからね。」
「うん。」
つまり太上老君はバレンタインにいつも申公豹から貰ってばかりだったから、今年は逆チョコにあやかってチョコを贈ろうとしたらしい。
「…購入という手段があったはずですが。」
「まぁ…そうなんだけど…作った方が、良いかなぁって。ほんとは一人で作って驚かそうと思ったんだけど、この状態だし…。
出来ないよりマシかなぁと思って。手伝ってもらおうと思って呼んだんだ。
他にお菓子作れそうな友達とかに来てもらえば良かったんだけど、そういうのいないし。雲中子は器用だけど変なもの作りそうだし…。」
言いにくそうに話す太上老君の顔は申し訳なさそうで、その様子を申公豹はちょっと愛おしいとか思ってしまった。
料理やお菓子は出来あがっているのが当然というような太上老君が、材料から作ろうと思ったことだけでも素晴らしいことなのだ。
しかも他の誰でもない申公豹のために。
「…しかたないですね。」
苦笑しながら、申公豹は傍にあったボウルに手を掛けた。
それを見た太上老君が嬉しそうに顔を綻ばせる。
「いいの?」
「…。…食材がもったいないですし。」
その言葉に、礼を言いながら太上老君が抱きつくと、申公豹は全力でそれを突っぱねたが盗み見た頬は仄かに赤く染まっていた。
さて、汚れきったキッチンを粗方片づけた二人は使う食材を並べた。
といっても端から手の込んだものなど太上老君には向かないと思った申公豹が提案したのはごくごく普通のガナッシュチョコ。
並べるのは生クリームとチョコレート、無塩バターぐらいである。
「これだけでいいの?」
「簡単な方がいいでしょう?これならすぐできますよ。」
そう言いながら申公豹がチョコレートを刻みだす。隣で太上老君はこくこくと頷いていた。
ちなみに太上老君が用意していたチョコは何故かストロベリーとミルクで、なんでまたこの2種類なのかと不思議に思って聞いてみた。
「え?ああ、見た目かわいいかなぁと思って。」
にっこり、とそれはもう極上の笑顔で太上老君が返事をした。
その笑顔があまりにもイイ笑顔すぎて申公豹は悪寒を感じたのだが、これ以上突っ込むとロクでもない返事が帰ってくる気がしたので引きつった顔で「そうですか」とだけ返した。
綺麗に刻まれたチョコをボウルに入れ、太上老君に手渡す。
「これ、湯せん…お湯で溶かしてください。」
「はぁい。」
じゃあ溶かしてもらっている間に次の準備をしておこう、と目を離した…のが失敗だった。
「っま、老子ッ!」
「え?」
申公豹は叫ぶと、老子の手からボウルをひったくった。
なぜならば老子はチョコの中にそのままポットのお湯をぶち込もうとしていたからである。
間一髪でお湯まみれを逃れたチョコを手に申公豹は大きく息を吐いた。
「お湯なんか入れたらチョコが薄くなるでしょう?」
「え?だってお湯で溶かすんでしょう?」
なるほど、言い方が悪かったのか。と申公豹は眉間を抑えた。
湯せんの仕方を懇切丁寧に教えると、太上老君はまたこくこくと頷いて言われた通りにやり始めた。
これではどっちが年上か分からない。
チョコを溶かしている太上老君の真剣な横顔がなんだか可笑しくて、申公豹はくすくすと笑った。
「…?どうしたの?」
「いえ…なんでもありませんよ。」
子どもみたいでかわいい、とは流石に言えなくて、申公豹は顔をそむけてまた笑った。
そうこうしているうちにストロベリーもホワイトチョコもどちらも溶けきった。
申公豹はアルミカップを取り出すと、内側にハケでチョコを塗り始めた。
「それは何をしているの?」
「これを冷蔵庫で固めて、チョコレートのカップにするんですよ。で、ガナッシュをこの中に入れて、完成。」
「へぇ〜。」
「…やってみます?」
「うん。」
ハケを太上老君に手渡すと、申公豹はガナッシュを作り始めた。
太上老君が塗り終わったカップを冷蔵庫に入れて固め、申公豹が作ったガナッシュも少し冷やして固める。
二つが出来あがると、ストロベリーのカップにはホワイトのカナッシュを、ホワイトのカップにはストロベリーのガナッシュを絞り入れる。
「出来た!」
「そうですね、でも少し飾りっ気がないですかね…老子、買ってきたものを見せてください。」
「え?いいけど。何かあったかなぁ。」
スーパーの袋の中を漁ると、カラフルなチョコスプレーが入っていた。
申公豹はそれを取りだすと、ガナッシュの上に飾りつける。
パステルカラーのガナッシュカップが完成した。
「…ちょっとかわいらし過ぎましたかね…。」
「いいじゃない、かわいくて。かわいい子が食べるのだから。」
「…。…あなたよく真顔でそういうこと言えますよね…。」
「だって本当のことでしょう?」
自信たっぷりにそう答える太上老君の言葉に、申公豹は呆れと恥ずかしさで何とも言えない表情を作った。
太上老君はというと、にこりと綺麗に微笑んでいる。
「ね、申公豹。食べて。味見。」
ガナッシュカップを一つ取って、太上老君は申公豹の口元に差し出した。
チョコスプレーのかかったガナッシュが、唇に柔く触れる。
「じ、自分で食べ…ん、ぅ」
喋って開かれた唇に、太上老君がガナッシュを押し込んだ。
出来あがったそれはミルクやビターよりかは断然に甘かったが、甘過ぎるというわけでもなく、申公豹の口の中で溶けていった。
「美味しい?」
「…。おいしい、ですよ。」
「そう、よかった。」
ふぁ、と笑う太上老君の笑顔が幸せそうで、申公豹もつられるように微笑んだ。
そこまでは良かったのだが、太上老君が言った次の一言で事態は一変する。
「これ、全部食べてね。申公豹。」
「え、全部ですか?流石にちょっと多いですよ。」
「大丈夫、大丈夫。私が全部食べさせてあげるから。」
「は…?え、老…」
嫌な予感を感じて、申公豹は後ろへと下がるが調理台がそれを拒む。
前は前で、ガナッシュを持った太上老君に邪魔されて逃げられない。
抗議しようと口を開くと、またガナッシュを押し込まれ、今度はさらにキスまでされた。
どうやら「私が食べさせてあげる」とはこういう意味らしい。
「ん、んんっ…」
太上老君の舌とガナッシュが動き回って息が苦しい。
小さいとはいえチョコが口腔内で溶け切るまでにはそれなりの時間がかかるのだ。
それがあと1個、2個、3個…。
これじゃどっちが食べているのかわかりやしない、と申公豹はぼんやり思って、目を閉じた。
老子と申公豹の逆チョコバレンタイン
3月分
地面に寝転がって、薄紅と青の美しさを眺めていた。
肌を撫でるように風が吹いて、薄紅の花びらを散らしていく。
ぬける様な青空にひらり、またひらり。
そうやって舞い落ちる姿をもう数時間は眺めていた。
「…申公豹ー。また風邪ひいてもボク知らないからねー?」
隣にしゃがみ込む私の愛しい霊獣は、呆れたような声でそう言った。
その白い背にも、薄紅の花びらがたくさん付着している。
彼も私と同じように、何時間もこうして桜の花が舞い散るのを眺めていたからだ。
私は気まぐれに手を伸ばして、毛並みのいい額を撫でる。
すると気持ちよさそうに、黒点虎は大きな眼を細めた。
「あと…もう少し。良いでしょう?」
「別にダメじゃないけどさ。こんな同じ景色を何時間も眺めてて良く飽きないよね、申公豹。」
「おや。同じじゃないですよ?」
雲の形や、花の散る軌道。
肌を撫でていく風の速度。森の息遣い。
全てが一瞬一瞬、変わっていくのだ。
だから同じではない、と黒点虎に言うと彼にはどれも同じように思えるのか「ボクには難しくてよくわからないなぁ」と言われてしまった。
地面と接した背中は随分と冷たくなってしまった。
桜が咲いても今はまだ吹く風は冷たく、指先はひえる。
私はおもむろに空に向かって手を伸ばした。
ひらりひらりと舞い落ちてくる花弁は、私の手をすり抜けて地面へと落ちて行った。
青い、青い空。
その色を見ていると、なんだか懐かしい気がするのは何故だろうか。
なにか、心が躍る様な。ざわめくような。
「あ。」
黒点虎が小さく声を漏らしたかと思うと、じゃりと頭の上で音がした。
ふと暗くなった視界に映り込んだのは、やはり青だった。
「申公豹、風邪をひきますよ?」
「…ふふ、あなたも黒点虎と同じことを言うんですね。楊ゼン。」
私の頭のちょうど後方に立っているらしい彼は、私の顔を上から覗きこんで笑っていた。
その拍子に、長い青の髪が風でふわりと揺れた。
ああ、なんだ。
この色だ。
心が躍るのは、ざわめくのは、きっとこの色の中に彼を思い出すからなのだ。
「…ふふ。」
「?…どうかしましたか?申公豹。」
可笑しくなって笑いだした私を、彼は不思議そうに見つめていた。
地面に寝転んだままの私は、彼の青い髪にそっと手を伸ばして、その色を日に透かした。
溶けあった二つの青色に、私は満足気に微笑んだ。
冬と春の間の楊ゼンと申公豹
4月分 *現代パロ
そこは全て桜色。一年間待ち焦がれたように咲いている。
「きれい…」
知ってる。
「見とれるわぁ…」
それも知ってる。
「今日来て本当に良かった…!」
…ああもう!
目の前には満開の桜並木。咲き誇るのも風に舞うのも地を這うのも美しい。
けれど毎年見れる桜よりも、私の隣にいる人間の方が明らかに目立っていた。
「申公豹、なんでそんなに顔しかめてるの?」
「しかめてません。」
「うそ。」
「嘘じゃありません。」
「…。…もしかして、来たくなかった?」
「そ、ういうわけじゃ…!」
背けていた顔を戻すと、残念そうな声色とは反対に、老子は笑顔だった。
「ふふ、やっとこっち向いた。」
「…。」
嬉しそうな顔が癇に障ったが、それでも少し冷静になった私はもう顔を背けたりはしなかった。
私がもうすっかり見慣れてしまった、浅葱の髪に金の瞳のこの男は、文句のつけようがない麗人だった。
それは見た目の端正さだけではなく、彼の醸し出す雰囲気そのものだった。
人とすれ違うたびに視線が刺さり、囁き声が聞こえてくる。
カッコイイだとか、綺麗だとか、珍しい色だとか。
綺麗?
そんなこと私が一番知っている。
見とれる?
そんなこと私が一番経験している。
「ねぇ申公豹、」
あの金色の目が今映しているのは、私だけだ。
「なんですか…っ、て…待っ…!?」
触れ合っていたのはどれくらいだろう。
私の唇を掠めていった相手の唇は、次の瞬間には綺麗に弧を描いていた。
赤い舌が、上唇を舐めていく。
「なにっ、し、…っここが何処だと!?」
「だってさ、申公豹、」
口付けの瞬間を、見ていたのはどれくらいの人数だったのか。
あれほど他人の囁き声が気になっていたのに、花見の喧騒の中で私の耳に届いてくるのはもう老子の声だけだった。
「――…してほしかったでしょう?キス。」
その声を合図にするかのように、ざぁあと風が鳴いて、左右の桜並木の花弁が舞った。
視界を埋め尽くす桜色。
それが晴れてもまだ、老子は薄く微笑んでそこに立っていた。
花びらが、一枚また一枚、私と老子の間をはらはらと舞っていく。
「気にしなくて良いんだよ。」
「な、んの話ですか…」
「私を見る目とか、声とか、そんなの。色々。」
虚勢を張って、そんなもの気にしてなどいないと言おうとした。
けれど、反論しようとする口を老子の中指がそっと押さえた。
…どうしてばれているんだろう。
あなたが周りから評価されることが、私にはとても気に入らない。
恋人が褒められるのは嬉しいことのはずなのに、もやもやしてたまらない。
伸ばされた指先を掴んで、目を閉じた。実物よりも濃い桜の色が瞼の裏に焼きついている。
また喧騒が戻り始めていた。
それをかき消すように私の耳に届いたのは、やはり老子の声だった。
どこか気だるげでそのくせ良く通る、そんな声。
「…私だけ見ていればいい。だって私だって、君しか見えていないのだから。」
恥ずかしげもなくそんなことを言うから、こっちがいたたまれなくなってくる。
呆れたように溜息を吐く。もう周りの声など、どうでもよくなってしまった。
目の前にあなたがいて私に向かって話しかけている。その事実だけで十分だった。
だから私も強張ってしまった顔を解いて、微笑んだ。
「…桜も?」
「え?」
「桜も、見えていないとでも?」
「ふふ、そうだなぁ…こういうのは、きちんと見えるかな。」
そう言って、老子は私の髪を一房摘んでするすると梳いた。
ほらこういうの、と微笑みながら差し出されたその指には淡い桜の花びらが一枚、乗っていた。
桜と老子と申公豹
5月分
ずんぐりとうずくまる霊獣の隣にいつもの道化師はいなかった。
新緑の季節。気温は26.7度。
強くなり始めた日差しを避けるようにして、木陰に何とか体を入れ込んでいる黒点虎は、後方からこちらを見つめる太公望の無遠慮な視線に一瞬眉をひそめてこういった。
「申公豹ならいないよ。」
めんどくさくて気だるげ。どこかの仙人を思い出させるような声色に太公望は苦笑した。じっと見つめていたことにひとつ詫びを入れ、木陰まで足を踏み出した。
「どれくらいかかる?」
「えー、どうだろう。結構長いかもしれないよ。」
「お主をおいて遠出か?」
「そうともいえるし、そうじゃないとも言える。」
「?」
頭の上に疑問符を浮かべた太公望を見て、黒点虎は「あー説明するのめんどくさいなぁ」といった表情をしていた。
きっと目の前の若い道士は、想い人に会いたくてこう質問してくるのだろう。
「「どういうことだ?」」
被さった声に、お互い顔を見合わせて笑った。
「つまりー、ここじゃないどこかにいるってこと。頑張って入り口さがしてみなよ。」
「…。なんだかまるで亜空間にでもいるような口ぶりだのぅ。」
「うーん、まぁ近からず遠からずってとこかなぁ。」
「否定せんのかい…。」
そんな非現実的な、と太公望は頭を抱えたくなったが申公豹相手では非常識も非現実的も仕方のないことのような気がしてくるから不思議である。
とにかく正攻法でいっても歯が立たない相手、それがあの最強の冠を持っている道士なのだ。
「どこかに入り口があるんだよ。毎回形が違うから、今回のはボクもよく知らないけど。」
「入り口といってものう…。場所の検討もつかぬのか?千里眼は?」
「教えなーい。いいじゃない自分で探せば。どうせ暇なんでしょ。」
「おぬしも言ってくれるのぅ。」
確かに用事は無いが、暇とは少し違う気がする。
しかし時間が有り余っているのは事実なので、太公望は気長に探すことにした。
「じゃあ頑張ってね。」
「ああ。」
別れを告げて草原を踏み出す足取りは軽かった。
それでも時間が経つにつれ、だんだん重たくなってくる。
何も無いだだっ広い草原なのだ、入り口なんてどこにあるというのだろう。
そもそも入り口といっても形状が全くわからない。石なのか、印なのか、鏡なのか。
「だぁああ、もっとわかり易くせいっちゅーに!」
理不尽な悪態を吐いて、どす、と太公望は木にもたれた。
上を向けば若葉が芽吹き、その間から青く澄んだ空と太陽の光が見える。
「いい天気だのーぅ…。」
何気なく、木漏れ日に向かって太公望は手を伸ばした。
すると、1本の太い枝に焼印のようなものが押してあった。
「なんだこれは。」
す、とグローブ越しに右手の中指が触れた瞬間、世界が反転した。
「な…っ痛―――!?」
体は逆さになり、どすんと鈍い音をたてて太公望は地面に落下した。
きしむ体を何とか起こして目を開けると、そこは別世界だった。
「森…?」
澄み切った空気に見たことも無い草花。
聞いたこともない鳥のさえずりに混じって、小川のせせらぎが聞こえる。
確かにそこは森であり、しかし美しすぎる森だった。
「――…なんとまぁ、大きな音を響かせていらっしゃるんですねえ。今の音に驚いて、兎が逃げていってしまいましたよ。」
「!」
呆れたようで、楽しそうな凛とした声に太公望ははっと後ろを振り返った。
そこにはいつもの道化の姿で申公豹が立っていた。
違うところといえば、グローブと木と帽子がなくて髪が結われていないことだろうか。
細い白金の髪が、そよいだ風によって白い頬にかかる。
森の中で木漏れ日にうたれるその姿は、なんとも言えず美しかった。
「…太公望?」
ぼけっと座り込んだままの太公望をいぶかしんで、申公豹は眉根を寄せた。
白い手のひらが、太公望の額に伸びて、触れる。
「熱でも?」
「いや…なんとも、ない…!」
ある意味熱は上がりっぱなしなのだが、赤い顔を晒すわけにもいかず太公望はあわてて首を振って答えた。
それに納得したのか、白い手はすっと元の位置に戻っていく。
少し惜しいことをしたなぁと思いながらも、太公望はようやく腰を上げた。
「それで…今日はどういったご用件で?」
「え?」
「え?じゃないでしょう。わざわざこんなところまで来ておいて。わかり難いように入り口を隠しておいたのに。まさか入ってくる人がいるなんて思いませんでしたよ。」
迷惑がるでもなく、突然の来訪を楽しんでいるのかくすくすと申公豹が笑う。
そんな屈託のない笑顔にまたときめいてしまって、太公望は曖昧に笑い返すことしかできなかった。
なぜ会いにきたのかといわれれば、会いたかったからとしか答えようがないのだ。
手土産の一つでも持ってこればよかったと後悔した。
「ええと、それはだな、その…」
どうしてこういう時に限って上手く言えないのだろうかと太公望は思った。
策士だ何だと言われても、想い人のまえではこんなにも無力だ。
どもる太公望に、申公豹は不思議な顔をしていたが、しばらくすると来た理由などどうでもよくなったのか傍らの枯れかけた花を一つずつ手折りはじめた。
「…まぁ、あなたが来た理由は良く分かりませんが…。あっち、来ます?」
「え?」
あっち、と申公豹は右側を指さして言った。
そちらに目を向けるが、ここからはよく見えない。
「…行っていいのか?」
「追い返してほしいんですか?」
「まさか!行く、行くぞ!」
せっかく会えたのに追い返されてはたまらない、と太公望は早足で示された方角へ歩きだした。
そんなに慌てなくたって…と早足の太公望に申公豹がくすくす笑いながら付いていく。
森を進むとぽこりと広場のような場所に出た。
森であることに変わりはないのだが、下は柔らかい草で覆われ、机のような切り株が一つある。
太公望の足音で、兎がまた一羽逃げて行った。
「…ここは一体何なのだ。」
広場から周りを見渡して、太公望がもらしたこの日一番の疑問に申公豹が何でもないような声で答えてくる。
「何って…簡単に言えば亜空間でしょうか。」
「…。」
どこが簡単なのだと太公望は頭を抱えたくなったが、事実、草原からこんな別の空間に来てしまったのだから認めるしかない。
「太公望、あなた十天君の十絶陣をご存じでしょう?アレみたいなものです。」
「…つまりおぬしが作りだした空間だと?」
「ええ。ちょっと、暇つぶしに。」
暇つぶしにしては壮大すぎやしないだろうかと太公望は思った。
先程「美しすぎる」と感じたのは、この森が作られたものだからかもしれない。
自然界に存在しているものとは若干の違和感を感じる。
それでも、何ともいえず、美しかった。
「…お茶、飲みます?」
「え?」
森について思案していると、いつの間にか切り株の上には茶が用意されていた。
すすめられるままに茶を飲み、茶うけを食べ、気付けば随分と長居してしまっていた。
目の前では伏し目がちに申公豹が茶をすすっている。
まさか封神計画で敵対(とまでいかないのかもしれないが…)した相手と一緒に茶を飲もうとは太公望自身予想していなかった。
しかもこんなにも、この道化師に惹かれるとは。
「…本当は、ここに人を入れるの、嫌いなんです。」
ぽつりと呟くようにもれた言葉に、太公望は顔をあげた。
群青色の大きな目が、おっとりとこちらを見ていた。
「でもどうしてでしょうね。あなたが入ってきた時、どこか楽しい気分になりました。」
おかしいですよね、とまた申公豹がくすくすと笑った。
太公望はその言葉を何度も何度も反芻して、真意を図ろうとしていた。
けれど、そのどこか楽しそうな声色と表情に圧倒されて、何も考えられなくなってしまった。
自分の想い人が、自分と一緒にいて楽しいと感じている。
それが嬉しくてたまらなかった。
「…また、来てもよいか?」
「え?」
「その…、この森に。」
じっと、真剣な目で見つめてくる太公望の目に申公豹はまた一つ微笑んで、
「次はもっと難しい入り口にして、お待ちしていますよ。」
と言った。
太公望と亜空間の申公豹
6月分
人形のように動かない申公豹をじっと見ていた。
瞼にかぶさった白金の睫毛も切りそろえられた髪も、彼を構成する全てが愛おしかった。
伏せられた瞼の向こう側を夢想する。
銀色の睫毛に縁取られたその向こうに海底のような蒼穹のような群青色がある。
疲れて眠ってしまったその顔色は少し青白くて、白金の髪と月光でより疲れた様に見えた。
「ごめんね。」
行為を改める気もないくせにこの口はそんな言葉を紡ぐ。
伸ばした指先を瞼に滑らせると、薄い皮膚がピクリと震えた。
起きるのかな、とじっとその顔を見つめていたがその瞼は開かなかった。
それを半分残念に思って、半分嬉しく思う。
時間の殆どをまどろみの中で過ごす私とは違い、かわいい愛弟子の寝顔はとても貴重なもののように思う。
大きな目が伏せられるとその顔は一層幼く見え、じっと見つめていても見飽きない。
「キスしたくなるなぁ。」
小さく笑って呟くと、申公豹がううんと一度唸って顔をそむけた。
心なしか、眉間にしわが寄っている。
もうほんと、寝ててもそっけないんだね。
そんなところが、かわいいんだけどさ。
小さく呼吸を繰り返す唇にそっと唇を合わせた。
触れ合ったそこは生温かくて、ぬるま湯につかっているみたいだ。
「ん、ん…」
酸素が足りないのか、申公豹が呻いた。
ゆるゆると首が左右に振られるが、構いもせずに唇を合わせ続けた。
「、ふ…」
「起きた…?」
うっすらと瞼を開いた申公豹に問いかける。
まだ寝ぼけているのか、視点が定まらない。
息苦しくて薄く張った涙が、群青色の目をきらきらと煌めかせていた。
「…。…ろぉし…」
「ん?」
「…あなたは…わたしをゆっくり寝かせようという気がないのですか…?」
半分ほど目を開いた申公豹が、むすりと顔を歪ませながらそう言った。
怒るのも無理ないように思う。
彼が意識を飛ばしてから、まだ3時間もたっていないのだから。
「そんなことないよ。」
「なら…」
「そんなことないけれど、でも、かわいいんだもの。」
「…。」
疲れて眠る顔もかわいいから、ついついちょっかい出してしまう。
悪びれもせずにそういう私を、申公豹が下から睨んでくる。
その表情だってやっぱりかわいいのだ。
「…嫌な人ですね、あなたって。」
「ごめんね。」
「本気で謝ってないでしょう。」
「うん、ごめんね。」
「…。…ほんと、ヤな人ですよ。」
「でも好きなんでしょ?」
「勝手に言ってなさい。」
そう言ってまた君は、怒って顔を背けていく。
晒された頬にキスすると、また君は少し嫌な顔をして、目を閉じる。
でも良く見ると耳が赤くなっていて、やっぱりそんな所が。
「ほんと、かわいいよね。」
かわいがり老子と申公豹
7月分
夏といえば!
「コスプレ!」
「そんなわけないでしょうがっ変態!」
ばしーんと音がするほど激しく床に叩きつけられたのはヘッドドレスだった。
きれいに結べた蝶結びは無残に形を崩してしまっている。
「いい加減にしてください!!人が気持ちよく寝てる間に貴方は一体何を…っ」
「普段着を脱がしてメイド服を着せマシタ。」
「黙りなさいっそんなこと聞きたいんじゃないんですよ私は…!」
そう言って、かわいい愛弟子は私の胸倉を掴んで揺すってくる。
息がかかる程近い距離にある顔から少し視線をずらせば、爪先立ちの足元が見えて微笑ましかった。
黒皮のおでこ靴に真っ白のニーソックス。
膝上5センチの実にシンプルな黒と白のメイド服は、小柄な彼にとてもよく似合っている…と私は思う。
ついさっきまでその綺麗な白金の髪にヘッドドレスが付いていたというのに、本当に残念だ。
「何でこんなことするんですか!嫌がらせですか!」
「いやだなぁ、かわいいからに決まってるじゃない。」
「〜〜っ…!!」
ギンッと細まった群青の瞳の中に怒りの炎が見えるような気がして、そういえば炎は青いほうが温度が高いんだっけとぼんやり思った。
「反省してるのですか!?」
「何を?」
「何をって…っ」
質問を質問で返されるのは、彼の嫌いなことの1つであったと思う。
つり上がった眉が、少しだけハの字に曲がる。
そしてもう1つ彼が嫌いなことは、
「何を反省すればいいの?君をかわいいと思うことを…?」
「ちが、」
それは至近距離で私にまっすぐ視線を投げられること。
私の金色の目に射抜かれるのは、心を見透かされているようで嫌なのだと言う。
「ねぇ、申公豹、」
鼻先が触れるくらい顔を近づけても、蛇ににらまれた蛙の様に彼は一歩も動けない。
すっかりハの字になってしまった眉を見て、なんだかかわいそうな事をしているなぁと思いつつそんな表情もやっぱりかわいいと思ってしまうのは親バカなのか、はたまた歪んだ愛情なのか。
ハの字の真ん中に口付けて、今度は顔を真っ赤に染める君はやっぱり世界一かわいい。
老子と申公豹とメイド服
8月分 *過去捏造
しんしんと降り続く雪の中に一人の少年が倒れていた。
その体は指1つ動かすことはなかったが、かすかに呼吸をしているようだった。
私は3メートルほど先にあるその少年との距離をつめることができずにただ佇んでいた。
別に動けないわけではないのだが、なぜだがその足を踏み出すことができなかった。
珍しい、白金の髪を持っている彼が着ている服は、決して上等な物でもなければ綺麗な物でもなかった。
けれどもその目に痛いほど白い雪の中に埋もれていく彼の姿は、この世のものとは思えないほどに美しかった。
その夢はそこで途切れた。
「――…。」
カチリと、時計の針が動く音がした。
「…この部屋には、時計なんてないのにね。」
吐く息と同時にそうつぶやくと、無性に夢の中の彼に会いに行きたくなった。
自分の夢に出てくるくらいだ。きっと何か意味がある。
めんどくさいことをしようとしているという自覚はあった。
けれどどうしても、どうしてもその少年に会いに行かなければならないと頭の中で囁く声がやまなかった。
安眠を得るためにはこの囁き声を止めなければならない。
まぁ、見るだけでも。この声がやめばそれでいいのだ。
まだ少しぼんやりとしている頭を数回振って、私は寝台から足を出した。
少年のことは白い彼と呼ぶことにしよう。
何しろ肌から髪色まで真っ白だったのだから。
白い彼の気配というものはとても変っていて、彼はまだ人間のはずなのにまるで人間ぽくなかった。
すっと、消えてしまいそうなほどに儚いくせに私を惹きつけてやまなかった。
ふわふわとその気配を辿って着いた場所は森の中の質素な庵だった。
下界の季節は冬で、木造の庵は殆どがその色を白に染めている。
雪の重さで潰れてしまうんではないだろうかと、しても仕方のない心配をした。
夢の中で凍死寸前だった白い彼は、庵の中で案外元気に過ごしているようだった。
といってもその体躯は痩身を通り越してガリガリだったけれども。
(…顔、見えない。)
庵に1つしかない小さな窓から、私はそっと中を伺っていた。
夢の中と同じ薄汚れた白い服を着ている彼は背中を向けて黙々と書物を読んでいた。
微動だにしないその背中を見つめていると、ゆっくりと彼が振り返ったので慌てて身を隠した。
驚いた。こちらの気配は消していたはずなのに。
ミシミシと木の床を鳴らして彼は窓まで歩いてくると、顔を出して視線の主を探しているようだった。
もちろんそこで見つかるようなヘマはしなかった。
そうして不思議そうに首を傾げて窓から離れていく。そこで私は初めて白い彼の顔を見た。
(あぁ、なるほど。)
人間離れしているのは、気配だけではなかったのだなと思った。
大きな群青色の瞳は冬の湖面のように昏い色をしていて、そこには生命の煌きだとか、それとは対極の絶望だとか、とにかく感情めいたものを一切感じることができなかった。
白い肌に大きな目、それを縁取る白金の睫毛に形のいい唇。
まるで人形のように整った容姿を持つ彼は、本当に人形のように生の匂いがしなかった。
つまり彼の体は確かに心臓も動いているし呼吸も血圧も安定しているけれども、精神状態はあの夢のようにまさしく凍死寸前だったのだ。
(あの目に、光が宿ったら。彼はどんな風になるんだろう。)
私を突き動かしたのは、遠い昔に忘れていたはずの好奇心だった。
あの目が、あの顔が、感情を持ったら。笑ったら、怒ったら、泣いたら、どんな風だろう。
視線を上のほうに向けて想像してみたけれど、頭のどこにも正解らしきものは見当たらなかった。
気付いたときには庵の傾いた扉の前に立ち、そしてその扉を叩いていた。
カチリと、また時計の針が動く音がした。
***
コン、とノックにしては控えめな音が部屋に響いた。
私は扉の数歩前に立ちすくみ、見通せるはずもない向こう側を見ようとしていた。
妙な視線を感じたのは数十分前。
殺意も何も感じない、ただこちらを伺うためだけに向けられる視線。
こんな辺鄙なところに建っている庵だから、森で遭難した人間が中を覗いているのかと思った。
しかしただの遭難者がこうも慎重に気配を消して近寄ってくるだろうか。
無遠慮に覗いてくるならまだよかった。
こんなに「上手に」覗いてくるのは気味が悪い。
開けるか開けまいか、扉の前で思案する。雪で遮断された部屋の中で、暖炉にくべた薪の割れる音だけがひびいていた。
沈黙を守ったまま数分が過ぎた。
もう立ち去ってもいいころだが、相変わらず扉の向こうには人の気配がする。
人…いや、人なのだが、何か違うような。よくわからない。
コンコン。
「!」
今度ははっきりとノックが聞こえた。
どうやら待ちくたびれたのは向こうのようだった。
「…開けてもいいのかな?」
男の声だった。
そんなに大きな声ではないのに、不思議とよく通る声だった。
私は声も出さずに一度だけ頷いた。扉の向こう側に見えるはずもないのに。
けれども扉の向こうのその男は、まるでその頷きが見えたかのように、何の躊躇いもなく扉を開けた。
扉のきしむ音がして、飛び込んできたその光景に私は息を飲んだ。
声を出すこともできなかった。
「…こんにちは。」
これ、は人間なのだろうか?と初めに思ったのはそんなことだった。
浅葱色の髪に金色の瞳。それだけでも常人離れしているのに、その整った顔はどう表現したらいいのかわからなかった。
綺麗では陳腐すぎ、美しいでは曖昧すぎた。
この世界にある賞賛の言葉をすべて思い浮かべても、目の前の存在には到底かなわないと思った。
「突然だけど…」
無遠慮なほどにじっとその顔を見つめていると、その男はそんな視線を気にする様子もなく淡々と喋り始めた。
「キミに興味がある。」
「…は…?」
あまりに唐突なその言葉に私は意味を持たない言葉のかけらを発することで精一杯だった。
興味がある?
興味があるってなんだ。この男と私は初対面のはずだ。
名前も知らなければ……そうだ。そもそもこの男は、人間なのだろうか?
「…私の名前は太上老君。昆崙山に住まう仙人だ。キミのことは夢でみたんだ。
会いに行けって頭の中がうるさいから、見に来たんだけど…実際会ってみて興味がわいた。また来るから。今日はもう…眠くて敵わないんだ。」
私の聞きたいことを一気に喋ったその男は、最後に大きな欠伸を一つして…そうして何事もなかったかのように背を向けて歩き出した。
あまりに唐突な出来事に結局私は意味のある言葉を何も発せないままその後姿を見ていた。
「じゃ、またね。」
小さく笑みを残したまま、その男はふわりと宙に浮かんで消えていった。
私は雪がまだ降り続く灰色の空を、バカみたいにずっと見続けていた。
白い彼と太上老君の邂逅
9月分 *現代パロ
人混みがいかにも嫌いそうな太上老君を夏祭りに誘ったのは、意外にもお祭り好きな申公豹だった。
「…君って人混みとか苦手そうなのにね。」
「え?何か言いましたか?老子。」
「いや…、なんにもないよ。」
祭の喧騒の中で太上老君を見返した申公豹は実に楽しそうな顔をしていたので、
太上老君はその表情を曇らせるような発言はなるべく慎もうと心に決めた。
狭い通りによくもまあこんなに人が通れるものだ。
隣を歩く人との距離はゼロを通り越してマイナスではないだろうか。
カラコロと下駄を鳴らしながら歩く幾人もの間を縫って通りを抜けていく。
申公豹が誘ったのでなければ老子は帰るどころかそもそも来てさえいないだろう。
屋台の熱気。男女の視線。子どものはしゃぐ声。色とりどりの服。色んな情報が洪水のように押し寄せてくる。
そのまま歩きつづけ、やっとまともに息が出来るような通りに出たのは数十分経った頃だった。
「はー…疲れましたね。」
そうは言うものの申公豹の表情は疲れより楽しさが全面に出ていた。
振り返ったその姿をやっとじっくり見ることが出来た太上老君は、僅かに微笑んで申公豹の服を引っ張った。
「よくにあってるよ、これ。」
くい、と引いたそれは浴衣だった。藍染めのシンプルなその浴衣は彼にとてもよく似合っていた。
「べ、つに…普通です。」
「そんなに照れなくても。」
「照れてません。」
「じゃあ恥ずかしがらなくても」
「は、恥ずかしがってません!!」
焦って否定する姿に太上老君は愛おしそうに目を細めて笑った。
もう背を向けてしまっている申公豹に、その表情は見えなかっただろうけれども。
まだ照れているのか、ずんずんと早足に歩く申公豹の背を追いかける。
すっかり人々の休憩場所と化している神社の階段を上っていく姿を見つめながら、
なんだか視線がぐらついてることに太上老君は気付いた。
(あ、れ…?)
階段を上りそこなって、何とか転げ落ちるのを免れた身体は横に傾いで神社の柱に肩をぶつけた。
後方の変化に気付いた申公豹が振り向いて、何事かと小走りに駆けよってくる。
「っどうしました?大丈夫ですか…?」
「うーん、大丈夫大丈夫。多分酔っただけだよ。」
「酔う?」
「うん、人に。」
「…。…どれだけ苦手なんですか、人ごみ…。」
「あはは…。」
平気だよ、と力なく笑う顔色の悪さに申公豹は眉根を寄せた。
チアノーゼの唇で、なにを言うのかと。
「水、もってきます。」
「え。いいよ、ほんと…だいじょう、」
「いいから、大人しく待ってなさい!」
そう叫んで申公豹は自販機まで走っていく。
あんなに走らなくても大丈夫なのに、と太上老君は思ったが、自分を気遣ってくれる優しさに嬉しくなった。
白金の髪がはらはらと揺れる様子をまるで星屑みたいだと思った。
「どうぞ。」
「…ありがと。」
隣に座って黙りこむ申公豹の表情が冴えないことに太上老君は気付いていた。
おそらく祭りに誘ったことを後悔しているのだろう。
心配してくれるのは嬉しいが、申公豹が辛いのは太上老君の本意ではない。
(顔、曇らせないように…って思ってたのになぁ)
彼から誘いのメールが来たことも。
浴衣を着てきてくれたことも。
普段の彼の性格からしたらとんでもない行動だったろうに、それをあえてしてくれたのだ。
それなのに体調を崩してしまって、おまけにこんな顔させて、申し訳ないなぁと思いつつ太上老君は申公豹に手を伸ばした。
長い指が首筋に触れる。
夏の暑さか祭りの熱気か、はたまた走って水を取りに行ってくれたせいなのか、そこはしっとりと汗ばんでいた。
「な、なんですか…?」
「笑ってよ。」
「…。…この状況でケラケラしてたらおかしいでしょう。」
「真面目だなぁ。」
「そういうのじゃありません。」
むっとした表情に太上老君は微笑んだ。辛そうな表情より随分良いと思ったからだ。
触れた指先から脈を感じる。
規則正しくて、今は少し早く、強い。
「申公豹、」
「はい?」
こちらを向いた顔に、太上老君はキスをした。
きょと、と固まった顔があっという間に赤に染まって感じる脈は早まった。
「っなにするんですか!?」
「何って、キ」
「そういう意味ではなくてッ、こ、こんな…人がいっぱいいるのに!」
「だから?」
「っだ…だからって……!」
人が見てる。だからなんだっていうの?
そう、平然として聞いてくる常識のぶっ飛んだ恋人に、申公豹は怒りを覚え呆れて、そして急に可笑しくなって、ついには吹きだしてしまった。
「ふ、ふふ、もう…あなたって、本当におかしい」
「そうかな?」
「そうですよ。」
クスクスと、耐えきれずに笑い続ける申公豹に、太上老君もつられて笑った。
(怒った顔も泣いた顔も、全部愛おしいけれど。やっぱり、君には笑っていてほしいもの。)
祭りの喧騒。はしゃぎ声。色とりどりの騒がしい景色から上を見上げると、まん丸の大きな月が辺りを明るく照らしていた。
祭りの喧騒と老子と申公豹
10月分 *現代パロ
まるで世界の終わりみたいだ。
「けほ…っ」
時計の針が示すのは15時。
水銀体温計が示すのは38.6℃
全身の倦怠感、喉の痛み、めまい、頭痛。
風邪を引いていると分かったのは今日の午前中だった。
今日は講義もバイトもなかったから、掃除に買い出し…やりたいことはたくさんあったのに。
横になって天井を眺めていると身体を動かしてもいないのにぐるりと視界が回る。
気分の悪さに、しかたなく腕で目元を覆った。
目を閉じると真っ暗の中に秋晴れの日の光が透けて見えるようだった。
窓から入ってくる風はさわやかで、同じ読みでも随分な違いだ。
(私って、今…一人…なんですよね。)
一人暮らしをしているのだから当たり前なのだが、普段は大学とバイトの忙しさで実感する時間もなかった。
こうして変に時間が余って、改めて感じる。
自分は今一人なのだと。
(別に寂しくなんてないと思ってたんですがね。)
家を出てから自由気ままに生活してきた。誰にとやかく言われるでもなく、自分の思うままに。
でもなぜだろう。
今こんなにも、ぽっかりと。心が。言いようのない不安が。
どうして今になって。
考えを振り払う様にぎゅっと目を瞑った。
そうしたらふいに浅葱の髪を思い出した。
柔らかくふわりとした、あの浅葱の髪。あと金の目。
(老子は、来ない。)
答えは簡単、自分がそういう風にしたからだ。
携帯が鳴ったのは確か12時過ぎだった。
だるい体で携帯に手を伸ばし、表示された名前に緩みそうになる頬を引き締めた。
体調の悪さなど微塵も感じさせないように声を出し、今日は忙しいからと訪問を断った。
『?…なんか、具合悪い?』
その言葉に一瞬どきりとし、そんなことないと嘘を吐いた。
何でそんなことをしたのかよく分からない。
ただ弱っている自分を見せるのがいやだった。
そうして通話は切れ、今に至る。
(それなのに今は寂しがっているなんて、ばかですよね。)
自分から差し出された手を振り払っておいて、後悔しているなんて。
もういい、今は眠ろう。たかが風邪だ、薬を飲んで休養を取ればなんとかなる。
言い聞かせるように心の中で呟いて、私は再び目を閉じた。
「ほーら、やっぱり具合悪いじゃない。」
呆れたような声が聞こえたのはそれから数十分後だった。
まどろんでいたのが一気に覚醒する。
「ろ、老子…っ?」
「なぁに?」
「どうしてここに…」
「だって気になったから。」
「なんですかそれ…」
私も呆れた声が出た。それでもにじみ出る嬉しさや安心感は隠せなかったかもしれない。
だってこんなにも、貴方が来たことでホッとしてしまった。
ニットセーターの袖から覗く老子の手が、私の額に伸びてくる。
「熱があるね。」
「8度6分です。」
「それは大変だ。」
「別に、死にやしませんよ。」
ばたばたと老子がキッチンまで駆けていく。
帰ってきたその手には、ぬれタオル。ぺたりと額に乗せられると、ふっと熱が遠のくような気がした。
「気持ちいいでしょ?」
「…。…それなりに。」
「こんな時くらい素直になったらいいのに。」
クスクスと笑う声がする。
妙に耳馴染みの良いその声は、私の眠気を誘う。
瞼が段々重くなって、まばたきの回数が減ってくる。
「眠い?」
「…ええ…」
「眠ったら?ここにいるから。」
「…」
「申公豹、…もう寝たの?」
限りなく眠いが、まだ老子の声は聞こえていた。
返事をするのも身体を動かすのも億劫で、そのまま眠ったふりをした。
「…おやすみ申公豹。」
ぽんぽんと老子の手があやすように私の頭を撫でる。
もう一人ではないのだと思うと、肩の力が抜けた。
世界の終わりと始まりは、案外近い所にあるのかもしれない。
風邪ひき申公豹と老子
11月分
「踊りませんか?申公豹。」
「…はい?」
そう言って彼は私の手を取り引いた。
地上1000メートルの世界で。
「っ申公豹!」
黒点虎の切羽つまった声と哮天犬の鳴き声が夕暮れの空に響いた。
それも仕方のないことだ。たった今まで和やかに談笑していた二人のうちの一人が、もう一人の手を引いて空に身を投げたのだから。
私の両手にしっかり指をからませた彼の表情は、まるで何事もないかのように穏やかだった。口元には笑みさえ浮かんでいる。
私が下で、彼が上で。だから私の目には彼とその上の夕暮れの空が映るばかりだ。
落下スピードはどれくらいだ?まるでスローモーションのようにゆっくりに感じる。
「…これって踊るうちに入るんですか?」
「もっと他に言うことあるでしょう、申公豹!僕に落とされたんですよ、あなたは。」
あはは、と彼は可笑しそうに笑った。
焦っているのは霊獣たちだけで、当事者である私たちは至って普通だった。
――だって、もう落下してしまっているのだから、今更焦ったってどうしようもないではないか。
「空は綺麗ですか?」
「ええ、それなりに。真っ赤で。」
「夕焼け空かぁ。いいですね、終末感漂ってて。」
風を切る音がうるさくてかなわない。
声を張り上げないとお互いの声は聞こえなかった。殆ど唇の動きを読んでいるようなものだ。
彼の青い髪が夕暮れ空にばさばさと揺らめいて、私の視界は青だったり赤だったり目まぐるしい。
上を向いているせいで地面が迫って来ないから分からないけれど、あの高さからだとおそらく30秒ほどで地面にたたきつけられるだろう。
今まで何秒たったのか?そんなの覚えていやしない。
「世界の終わりには、やっぱりあなたと一緒にいたいです、僕。」
「なんですかそれ。」
「世界の終末は結構大事なことですよ?だって僕たちは自然死しないんですから。」
不老不死とはそういうことだ、と彼は言った。
世界の終末なんかまるで信じていないような顔をして、にこやかに語る彼は本当に「読めない」と思った。
ああ、地面が近い気配がする。
目まぐるしく変わる視界にうんざりして、私はゆっくりと目を閉じた。
「――っ…!」
想像していた衝撃は来なかった。
背中に黒点虎の柔らかい毛並みを感じて、私は上からどすりと覆いかぶさるように落ちてきた彼の身体をなんとか受け止めた。
重なったお互いの心拍は早く、思いのほか心身に負担がかかっていたことを知った。
約30秒の私たちのダンスは、他の人の目にどう映ったのだろうか。
「ッおまえなんか嫌いだ!!」
取りあえず地面に降り立った私の無事な姿を見てへにゃと顔を歪めた黒点虎は、大声で叫んで楊ゼンに体当たりした。
どんと鈍い音がして、彼は地面に尻もちをついた。
わぁ、と私に抱きついて泣き出してしまった霊獣の額をゆっくりと撫でる。
「楊ゼン、私にはいいですけど、黒点虎にはきちんと謝りなさい。」
「そうですね…。」
わんわんと泣き続ける黒点虎に流石に申し訳ない気持ちになったのか、楊ゼンは苦笑して謝罪の言葉を述べた。
当然のように黒点虎は彼を許さなかった。
すぐにでも私を背にのせて駆けようとする黒点虎を少しだけ制止して、私は彼と向き合った。
「…どうして、避けなかったんですか?申公豹。」
「なにがです?」
「落ちるとき。避けられたでしょう?」
「さぁ?どうしてでしょう。しいて言うならば、」
西日が眩しいのか、彼は顔をしかめていた。今ならば私の顔は見えないだろうと思って、思い切り意地の悪い顔で私はこう言ってやった。
「私の終末のプランも、あなたと同じかもしれないから…ですかね。」
え、と驚いた彼の短い声を聞いた。
私は聞こえないふりをして、夕暮れの空を黒点虎と駆けて行った。
楊ゼンと申公豹で終末とダンス
12月分
「細い!」
だむ、と楊ゼンが椅子から勢いよく立ち上がったので、机においてあった茶器がかちゃんと大きく音を立てた。
幸いにも中身はこぼれなかったようだ。
「…はい?」
「だから、細すぎるんですよ申公豹!ちゃんと食べてますか!?」
「食べるも何も…別に食べなくたって死にやしませんし…。」
机からぐっと身を乗り出して語りだす楊ゼンの覇気にも負けず、申公豹は茶を啜りながら淡々と答えた。
仙道は燃費がいい。少しの量で体は動くのだから、食が趣味でさえなければ殆どといって良いほど食べ物を摂取しない。
特に申公豹はそれが顕著だった。
とにかく食べない。食べないったら食べない。
「別に、そんなに細くないでしょう?」
「どこがですか!僕は心配なんです、抱きしめたときに手折ってしまわないだろうかとか押し倒したときに体を痛めるんじゃないかとかあんなときやこんなときに負担がかからないだろうかとか特に突き上げたときにその細腰がいt」
「っとりあえず黙ってください…!!」
恥ずかしいことを恥ずかしげもなくまくし立てる楊ゼンに、羞恥と若干の引きを覚えた申公豹はとりあえず彼の言葉を制した。
それでも楊ゼンは止まらない。
申公豹の両手をがしりと掴んで、真剣な眼差しでこういった。
「僕がおいしいもの作りますから!」
キラキラと目を輝かせている楊ゼンに、申公豹はただぽかんと呆気に取られることしか出来なかった。
(スイーツ男子…。)
下(人間界)で流行っているらしい言葉を思い浮かべながら、申公豹はテーブルに並ぶ数々の菓子を眺めていた。
イチゴのショート、ドーナツ、アイスボックスクッキー、マドレーヌ、フォンダンショコラ…どれもガラスケースに入っていそうなほど完璧に作りあげられていた。
部屋中むせかえる様な甘い匂いが充満している。
「おいしそう…。」
「でしょう!?」
「ですが…こんなに食べられませんよ…。」
というか見ているだけでお腹いっぱいだ、とは、満面の笑みで菓子の紹介をし始めた楊ゼンの前で言えるはずもなかった申公豹は苦笑しながらフォークを掴んだ。
綺麗に切り分けられたケーキの端から3センチを口に運ぶ。
「ん…おいしいです。」
それは見た目に違わず美味しかった。思わず笑みがこぼれるほどに。
これなら少々なら食べてもいいかもしれない。
申公豹が次の菓子にフォークを刺そうとすると、目の前に別のフォークがすっとさし出された。
「はい、どうぞ。」
「ん、」
ぱく、と食い付いてしまってから申公豹はハタと気がついた。
これは世間一般で「あーん」と言われる主に恋人同士が行うこっぱずかしい儀式であり、今それが実際に行われ、しかも自分はそれに応えてしまったということに。
慌てて顔を引っ込める。恥ずかしくて口の中に入ったままの菓子を咀嚼することも出来なかった。
目の前では楊ゼンがそれはもう楽しそうな顔で笑っている。
「申公豹、はい、あー…」
「じ、自分で食べれます!!」
差し出されたフォークを退ける。
あんまり恥ずかしいもんだから、これはもう食べることに集中するしかないと申公豹は一生懸命に咀嚼を始めた。
味なんかわかったもんじゃない。
「うーん、とりあえず4分の1くらい食べていただくのが僕の理想ですね。」
「よ、4分の1…」
「はい!大丈夫です、手が止まったらまた僕が食べさせてあげますから。」
「う…」
楊ゼンが提示した量は、普段ほとんど物を食べない申公豹にとっては途方もないものだった。
しかしもうこれ以上「あーん」されるわけにはいかないと申公豹はゆっくりと菓子を食べ進めていくしかないのであった。
「…もしかしてあなた、その…「あーん」がやりたかっただけじゃないでしょうね?」
「あはは!さぁ?どうでしょうか。」
楊ゼンとスイーツと申公豹
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