■2012年 拍手お礼小話■
1月分
こぽ、と吐き出した息は水中を舞って上へ上へと昇った。
閉じていた瞼を開ける。真っ青な、けれど冷たさよりも暖かさを感じさせる水の中にいた。
ここは夢の中だ。
昔の地球の記憶の中にでもいるのだろうか?生物は見当たらない。
ただ独り自分だけが投げ出されていた。夢の中だから、意識すれば息苦しくはないのだけれど、やはり漂う感覚は水の中そのものだった。
(あー…気持ち良くて、夢の中なのに、まだ眠ってしまいそう…)
こぽ、とまた気泡が舞っていく。もう一度瞼を閉じようとしたとき、声が聞こえた。
『…――し、老子っ』
『老君ー。』
『黒点虎、もっと気合いいれて呼んでください!これでは何時までたってもお重をあけられませんっ」
『もう先食べちゃおうよ申公豹ー…」
『珍しいことに丁度3年周期だから運が良ければ起きます。とりあえず夕方くらいまでは待ちます…」
『えぇええ!?せめてお昼過ぎでしょ…。もー…申公豹ってさー」
『?」
『なんだかんだで師匠想いだよねぇ」
『っち、違いますそんなんじゃないです!お節も2人じゃ大きすぎますしっ…!」
『老君ー、今起きたら申公豹の真っ赤なかわいい顔見れるから起きなよー。起きなかったらボクが独り占めするからねー。」
「黒点虎っ!?」
(ふふっ…あー、なんて賑やかなんだろ。この水の中とは全然違うね…)
聞きなれた声。耳になじむ声。愛おしい声。
水の中だから声がくぐもって聞こえるのが憎らしいくらいだ。
(こんなに呼ばれちゃあ、起きなきゃしかたないよねぇ…)
けだるい体を動かして、水面に向かって泳ぎはじめる。思ったよりも体は軽かった。
きらきらと水面が輝いている。
後10メートル、5メートル、4、3、2、1…ばしゃりと水面から顔を出した。
「…ああ、本当。かわいい顔。」
「はっ?ちょ、老…」
「あ゛」
私は目覚めて一番に目に入った顔に、軽いキスを送った。
唇を繋げたまま横に視線を向けると、黒点虎が呆れたような、悔しいような、複雑な顔をしていたけれど、私は知らない振りをして硬直したままの小柄な体を抱きしめた。
私を夢から引き上げたいとしい“家族”は、いつもと変らず私に接し、そして私は変らずにそれに応える。
昨日までどうもありがとう。
そして今日からまた、どうぞよろしく。
老子と彼の家族、以上の者達
2月分
「手作り、なのか?」
「…。…そうですけど。」
目の前に差し出されたのは見事なガトーショコラだった。表面がさっくり割れていて、とても美味しそうだ。
今日は2月14日でガトーショコラはチョコレート菓子。
となれば導き出す答えはきっと一つで、それはほぼ100%間違っていないはずだ。
「バレンタインの…チョコ、なのか…?」
それでも確認したくなるのは、目の前の人物がまさかその日を覚えていて、しかも自分にくれるなんて思わなかったから。
「…食べないならあげません。」
「わー!なにもそんなこと言っとらんではないかっ、食べるに決まっておろう!」
半分ふんだくるようにそのケーキを受け取って、そこらにあったフォークをケーキに突き刺して口に運ぶ。
口内いっぱいに広がったチョコの味は甘く、けれどもくどくなく、とても旨かった。
「うまい、」
顔をほころばしてそう告げると、申公豹は一瞬目を見開いて、それから目を細めた。
その笑顔が、形容詞を付けるとするならば嬉しそうなでもなく恥ずかしそうにでもなく「安心したように」だったことに心奪われて、
掌に持ったケーキを落とさないように抱きしめた。
「なっ、」
「うまい、嬉しい、ありがとう。…――すきだ。」
「…っ、ば、ばかなんじゃないですか…」
腕の中から逃げ出そうともがく身体をなんとか繋ぎとめて耳元でそう呟くと、申公豹は身体を少し強張らせたままそう呟いた。
バカで結構と言い放ち、噤まれたままの唇に噛みつく。
そうして、次の朝まで申公豹を帰さない…つもりだったのがやつはもう用事は終わりましたとばかりに帰って行ってしまった。
割と良いムードだと思ったのだがのう、とひとりごちる。
贈り物も嬉しいが、それよりおぬしと一緒にいたいのに。
そう思いながら、手元のケーキを見つめ続けた。
その翌日、たまたま空を一人(一匹?)で駆けていた黒点虎にその話をすると彼はとても怪訝な顔でこう言った。
「…それ、申公豹の顔した別人じゃないの?それかキミの性質の悪い妄想。」
「さらっと酷いことを言うのう、おぬし。わしがやつを間違えるわけがなかろう。」
「そんなこと言われたって、だって申公豹って、」
おっかしいなぁ、と難しい顔のまま首をひねった黒点虎はこう答えた。
「――だって申公豹って、あれでびっくりするほど不器用で、お菓子作りなんてありえないもん。」
「なに…?」
あまりにも意外な発言に、太公望は固まった。
あの申公豹が不器用?確かに性格面は不器用極まりないと思うが、料理も裁縫もそつなくこなせそうだというのに。
もしかして既製品だったのだろうか?
いや、確かにやつは手作りだと言った。
誰かに作るのを頼んだ?
それこそありえない。あのプライドが天より高そうな申公豹が、バレンタイン用の菓子を誰かに依頼するなんて。
となれば彼はどうやってあれを作ったのだろうか、と思案すると思い付いた答えは至極簡単だった。
「あやつ…。黒点虎、申公豹は今どこにいる?」
「へ?ここから東に5キロくらい進んだ高台あたりで休憩してると思うけど…って、太公望!」
「すまぬ、情報提供感謝するぞ。」
スープーに飛び乗って、東へ駆ける。
引きとめた上に急に立ち去るというのは黒点虎に申し訳ないと思いつつ、後ろを振り返ることはしなかった。
東に5キロ。
見慣れた道化服を見つけると、驚いている申公豹にロクに挨拶もせず両手をひっつかんだ。
「たいこうぼ、」
「グローブを取れ!」
「な、なん、なのですかいきなりっ」
「いいから取れっ」
「い、いやですっ、ちょ…――あっ、」
ぼと、とグローブが草原に落ちる。
現れた白い華奢な両手には、いくつもの火傷の痕と切り傷があった。
「こ、これは…っ、ちょっと、失敗しただけで…」
とっさに引っ込められそうになった手をぐっと掴んで引きとめる。
どこが「ちょっと」なのものか。
一日だけの傷じゃない。新しいものと古いものがあった。どれも小さな傷だが、それでも痛々しいことに変わりはない。
申公豹はお菓子作りができるほど器用じゃなかった。
けれど他人がつくったものを贈るのは何か違うような気がしたし、何より彼自身のプライドが許さなかった。
だから何日も何日も練習して、やっとあのガトーショコラを作りあげたのだろう。
手を傷だらけにして。
一緒に暮らしている黒点虎も気付かないほど、周到に。
「もう、ほんとうにおぬしは、」
傷だらけの手を、祈るように額に引き寄せた。
少し体温の低い、細い手。
ああそうか、それでこやつはあの日、安心したように微笑んだのか。
初めて作った菓子を、わしが美味いと言ったから。
すぐに帰って行ったのは、あの後なし崩しなった時にこの手をわしに見せないためか。
本当に意地っ張りで、プライドが高くて、本当に。本当に。
「なんでこんなに、かわいいのかのう…。」
掌を引き寄せた額を上げられないままのわしがそう言っても、申公豹は咎めなかった。
ただ俯き加減の頬を少し染めて、
「…あなたが喜ぶのなら、それで良かったんです。」
と小さな小さな声で、呟いた。
太公望と申公豹と甘いお菓子
3月分
「お風呂一緒に入りたい。」
「…は?」
あまりにも唐突に告げられた言葉に開いた口が塞がらなかった。
老子の思考はいつも読めないが、今回は読めないというよりは理解不能だ。
「だから、お風呂」
「いやそれは分かってますけど…なんで私があなたと一緒に入らなくてはいけないのですか。」
「え?だって恋人同士じゃない。」
むしろ入らない方がおかしいとでも言いたげな老子は呆けたままの私の腕を掴んで風呂場へと進んでいく。
慌てた私は腕を振って老子の進行を阻止した。
確かに自分たちは世間一般で言う恋人だが、だからといってどうして一緒に風呂に入らねばならないのだ。
それに、その…恥ずかしい…。
「ちょ、ちょっと!いやですよ私はっ…」
「何今更恥ずかしがってるの?裸なんてもう何回も見、」
「そういう問題じゃありませんっ、私はっ…」
なんとか入らずにすむいいわけはないだろうかと必死に頭をフル回転させていると、老子のクスクスと笑う声が聞こえる。
腹が立って顔を上げると、随分近くに老子の顔があった。
長い浅葱色の睫毛に縁取られた金色の目。それをすっと細めて老子は意地悪く微笑んだ。
「…申公豹、顔、真っ赤だね。」
とろけるような甘い声が耳に注ぎこまれる。
流れた老子の柔らかい髪が頬に当たって、くすぐったさに肩をすくめた。
「ね…一緒に入ろうよ?変なことしないから…」
絶対、嘘だって分かってるのに。
ああもういやだ…どうしてもこの目には、逆らえないのだ。
この家の風呂はこじんまりしている。
狭すぎるわけでもなく、丁度いい。
けれどそれは一人で入ったらの話であって、二人はいればそうもいかない。
(はぁ…どうしてこんなことに…。)
私を抱え込んで湯船につかっている老子は傍から見ても分かるくらい上機嫌で、鼻歌でも歌いだしそうだ。
リラックスしている老子とは反対に、私は全くゆっくりできない。
当然のように全裸だし、肌は触れ合っているし、何してくるか分かったものではないし…。
自然と力が入ってしまっている私を老子は面白そうに笑った。
「そんなに緊張しなくても…変なことしないっていってるじゃない。」
「あなたは前科があり過ぎるんですよっ…」
「そうだっけ?」
そう言って、老子は小首を傾げている。
過去にそう言って何度襲われたことか。数えるのも腹立たしい。
「あーでもほんと、気持ちいい…」
「ろ、老子…!」
ちゃぷ、と水音が響いて、老子の顎が私の肩にのった。
首回りに息がかかって、くすぐったい。
「なーんにもしないよ。っていうか申公豹、君、力入り過ぎ…。」
「ぅ…っ、んぁ…!」
ばしゃん、と荒っぽく響いた水音が全てをかき消してくれればよかったのに。
項を滑った指先に驚いて上げた声は自分でも嫌になるほど甘ったるかった。
今の指先に悪意はない。別に老子が悪いんじゃない。そんなの分かってる。
そんなの分かってるのに。
…意識しているのは、きっと私の方だ。
「はぁー…。…えっちな身体になっちゃって…。」
「あ、あなたのせいでしょうッ!?」
溜息のような、そうじゃないような息を吐いて、老子が私の身体を抱え直してくる。
だから嫌だったのだ。一緒に風呂だなんて。
こんなに近くにあなたがいるのに。
意識しないなんて、出来るものか。
「ふふ…そうじゃなきゃ、困る。」
どこか嬉しそうな老子の声が聞こえた。
わき腹をすべる指先に腹が跳ねる。
それはもう無意識の触れ方ではなかった。
…ああもうこうしてまた、陥落する。
老子とお風呂と申公豹
4月分 ※現代パロ
社会人になって数年目の春に特に感慨はなかった。
異動があるわけでもなし、学生のように新しいカリキュラムがあるわけでもない。
しかも今年は新人も入って来ないものだから、いつも以上に特筆することのない春になる、はずだった。
(こんなに良い天気なのに、外にも出れやしない…)
調剤室の待合にある大きな窓から、私は外を見ていた。
今日から4月、外はまだ肌寒いが陽射しはすっかり春だった。
桜がやっと綻び始めて、職場では花見をいつにするかなんて話題が出ているが正直あんなに人の多い所でわざわざ酒を飲みたいなんて思えなかった。
どうせなら人気のない所で桜だけぼんやり見つめていたいのに。
まぁどうせ今は仕事中だ。花見のことを考えていたって仕様がない。
早くこの大量の処方箋をやっつけて帰って風呂に入って寝たい。
仕事終わりまでまだ何時間もあるというのにそんな先のことを考えながら、私はまた一枚処方箋を手に取った。
その時、店の自動扉が開いた。
「こんにち、は…」
入ってきた客におざなりに挨拶しながら、顔を上げた私は固まった。
心理状態を表すように、言葉が、縺れる。
それは今まで感じたことのない気持ちだった。
今まで足りなかった物を自覚させられるような、探していたパズルのピースがぴったりと当てはまるような、そんなどうしようもなく愛おしい感情だった。
(綺麗……)
凛とした足取りでこちらに歩いてくる人物は、珍しい白金の髪を持っていた。
切りそろえられたそれが歩く度に揺れ、窓から入ってくる光を反射させていた。
正直入口から調剤のカウンターまでが遠く、顔などぼんやりとしか見えなかったのだがとにかくその人物は美しかった。
纏う空気そのものが美しかったのだ。
実際近づいててくるにつれはっきりしてくる顔は端正だった。
群青色の瞳は大きく、縁取る睫毛は長い。
形のいい唇は引き結ばれていて決して愛想が良いとはいえなかったが、そこがまた魅力的だと思った。
「これ、お願いします。」
透き通った、どこか甘い声だった。
(ああ…男の子…?)
差し出された処方箋の性別欄と声から、私は目の前の人物が男なのだと認識した。
女子にはなく、男子という枠からは少しかけ離れているその存在は危うい魅力を持っていた。
「あの…?」
「!…ああ、はい。少しお時間いただきますがよろしいですか?」
「はい。」
言葉を発しない私を不思議そうな目で見つめる彼の手から、慌てて処方箋を受け取った。
良く見ると彼の顔はほんのりと赤い。処方箋にはごく一般的な風邪薬が記載されており、熱があるのだろうと感じた。
待合のソファの端にとすんと座った彼は大儀そうに目を瞑り、隣の柱に頭を預けている。
失礼だとは分かっているのに、どうしても目が彼を見ていた。
(そうだ名前…。えーっと…し、んこうひょう…申公豹…ね。)
記載してある名前を反芻し、意味もなくそこをなぞる。
調剤をし終えて待合にいる彼の名を呼ぶと、どうしようもなく胸が高なった。
薬の説明に熱心に耳を傾ける姿が可愛らしく、自然と頬が緩んだ。
「ありがとうございました。」
「いえ、お大事に。」
薬を受け取って、帰っていく後ろ姿を私はいつまでも見ていた。
2、3年はここに勤務しているが彼を見かけたのは初めてだ。学生のようだったから、入学と同時に引っ越してきたのかもしれない。
ということはまたここに来ることもあるのだろうか?
調剤室に来るのは彼が体調を崩した時ということになるから、あまり頻繁に訪れることを願うのは不謹慎のような気もするがまた会いたくて仕方なかった。
幸いここはドラッグストアで日用品も売っているから、家が近ければ結構な頻度で来てくれるかもしれない。
そう、くるくると回る思考にふっと馬鹿らしくなって自嘲した。
何を考えているんだろう、またここに来るという確信もないのに。
けれど本当に、どうしようもなく、気分が高揚してしまって。
(あれ…?こういうの、なんて言うんだったっけ…)
首を傾げて、次の仕事にとりかかる。
就業時間一杯まで考え続けて、出た答えに何でそんなことにも気付かなかったのかと、狭い調剤室の中で声を出して笑った。
ああ、これは―――恋という。
老子と申公豹と一目ぼれ
5月分
どしゃぶりの雨の中、手探りであなたの顔に触る。
はじめは指先で頬に触れて、怯えたように一度指を引っ込める。
するとあなたがうっすらと笑んで、離れていった私の両手首を捕まえた。
「もっと触って。」
雨音が煩い。
それなのに呟くような声は私の耳にまっすぐと流れ込んでくる。
まるで私にしか聞かせないように。ダイレクトに。
「っ…」
息がつまった。
今度はあなたと私の意志で、あなたの頬を包み込む。
私の指先もあなたの頬も冷えていて、本当に肌に触れているのか怪しいものだった。
それでも柔らかい肌の感触は本物で、愛おしくて泣きたくなる。
「もっと触って、」
「いやです…」
「もっとだよ、申公豹。」
「いやです…っ」
いやいやと頭をふった。濡れきった髪からパタパタと滴が飛ぶ。
密着した肌を離そうと腕が震えるほど力を込めるけれど、相手はそれを許さない。
これ以上はだめだ。
これ以上触れていたらおかしくなってしまう。
「おかしくなってもいいよ。」
「よく、ありませ…っ」
「どうして?」
「どう…して…って…」
「大体、普通とそうじゃないことの基準なんてどこにある?ねぇ、申公豹…。」
そう言って、いつのまにか私の目尻に唇を寄せたあなたは、そのまま頬を伝って私の唇を塞いだ。
息を奪うような、貪り合うような、思考を奪うような、そんな口付けを私に与える。
「老子、ろうし…、ろぉし…」
息も絶え絶えにあなたの名前を呼ぶ。
今から最後の、意味のある言葉を囁く。雨音であなたに聞こえなければいいと思った。
「…愛 してい ま す。」
あなたに依存している。
依存している。
もう離れられない。
どしゃぶり雨のなかの師弟
6月分
きみをこうせいするすべてがいとおしい。
「痛っ…」
静かだった室内に跳ねた声が響いた。
まどろんでいた太上老君の意識が浮遊して、声がした方へ視線を向ける。
「どうしたの…?」
「指、切りました。紙で。」
ほら、と見せられた申公豹の白い指先には赤い線が一筋走っていた。
右の人差し指、その指の腹に3ミリ程度。
左手の上には分厚い書物がのっていて、なるほどそれで切ったわけかと太上老君は一人頷いた。
「地味に痛いよね、そーいう傷。」
「ええ。」
そう肯定した申公豹の口角がさがる。
傷口からはぷくりと血液が膨らんで今にもこぼれそうになっていた。
何か拭く物を、と申公豹の視線が彷徨う。
その様子をじっと見ていた太上老君は、おもむろに立ち上がって細い手首を掴んだ。
「なに…」
怪訝な顔をした相手に構いもせず、太上老君はその指先を口内に招き入れた。
ちゅ、と可愛らしいリップ音と同時に申公豹は大きな目をいっそう開く。
「ちょっ…!なにしてるんですか!?」
「らめてう(舐めてる)。」
何かおかしいことでもあるのか、と問いかけてくる金の目に申公豹は自分の反応が過剰なのかと錯覚する。
いや、吃驚するのが普通だし、舐めないのが普通だ、と気を取り直すように頭を振った。
手を引こうにも手首をがっちり掴まれていてびくともしない。
眠ってばかりでロクに運動もしない痩身のどこにそんな力があるのかと問いたくなった。
「離してください…!」
「いや。」
「汚いですよ、血液なんて…っ」
焦った声で申公豹が言う。
手首に力は入れたまま、少しだけ指先から唇を離した太上老君がきょとんとした顔で申公豹を見た。
「…なにそれ、本気で言ってるの?」
囁くように太上老君が呟く。
歪んだ笑みを滲ませたその声に、背筋をぞくりとしたものが走るのを申公豹は感じた。
「君を、構成する、何が、どこが、汚いっていうの?」
指先にあったはずの唇は、もう申公豹の口元までやってきていた。
どこまでも見通してそうな金色の目が申公豹を映す。
蛇に睨まれた蛙のように、指先一つ動かすことができない。
気付けば視界は暗くなり、唇が重なっていた。
「…老、子っ…」
逃げ出す申公豹の舌を、許さないという様に太上老君が追いかける。
唾液の混じり合う口内に微かに血の味が混じっていた。
「ふぁ…っ…」
ひとしきり堪能して、やっと太上老君の唇が申公豹から離れていく。
潤んだ視界で再び見た金色の目はさっきよりも穏やかで、申公豹を幾らか安心させた。
くすりと小さく笑った太上老君が、掴み続けている細い手首を引き寄せる。
血圧が上がったせいだろうか、小さな傷口からはまた血が滲んでいた。
また躊躇いもなくそれを口にする師に、もう反抗する気もなくなった申公豹は小さく溜息を吐いて右手から力を抜いた。
歪みだした愛と師弟
7月分 *過去捏造
「「あ、」」
「あ…」
口角があがったのがわかった。たった一瞬だったけれど、確かに私の唇は弧を描いた。
私の心に連動して、その筋肉を動かした。
それはまるで夢のようで、信じられなくて、けれど目の前にいる2人がとても嬉しそうな顔をしていて、今起こったことは嘘ではないのだと私に教えてくれた。
心臓を穿たれたような衝撃が走って、私は両の掌で顔を覆った。
「ぅ、あ…」
ぼろぼろと掌に涙がこぼれ落ちた。
受け止めきれなかったそれらは指の間や手首を流れ、冷たい床に落ちていく。
足元から崩れ落ちそうになる体を必死に支えていると、暖かい腕が私を包んでくれた。
「あーあぁ、せっかく笑えたのに泣いちゃうの…?」
細長い指が私の髪を撫ぜる。
頭上で囁かれた言葉はどこまでも優しくて、それがまた涙腺を緩ませた。
「いいじゃない老君、それって嬉し涙なわけだし?」
「それもそうだね。」
からから、くすくすと、楽しそうに笑う声が響く中、枯れてしまうのではないかと思うほどに泣いた。
その間、2人は言葉にならない声をあげる私の背を撫で、足元に寄り添いつづけてくれた。
やっと涙がおさまりかけたその時、私は今この瞬間、新しく生きはじめるのだと悟った。
掌をどけ、歪みきった視界で老子を見上げる。
金色の目の中一杯に、私を映し出してくれていた。
「ろ、うし、老子、」
「…なぁに?」
「――…とう」
「ん…?」
私、笑えていますか、老子。
あなたのおかげです。
あなたのおかげで、息ができます。
「ありが…とう、ございます、ありがとう…」
喉が強張っていて、絞り出した声はかき消えそうだったけれど、この距離なら届いただろう。
少し目を見張った老子はまた一段と綺麗に微笑んだ。
「うん…うん、わかってる。わかってるよ。」
その眦が光ったような気がしたけれど、もう涙でかすんだ私の目では何が正しいのか分からなかった。
ただ甘く優しい声だけが、私の心を穏やかにしていった。
ありがとう。
あなたに会えてよかった。
生きてきてよかった。
これからあなたと歩む未来が、どんなものであろうとも私は後悔しないだろう。
どうか。
どうかこの、今の、美しい気持ちが、これから先も残り続けますように。
いつもでもこの胸に輝き続けますように。
人形じゃなくなった少年とその師匠と霊獣
8月分
「おぬしは…あまり気持ちを言葉にせぬから、わしにはおぬしのことが未だによくわからぬ。」
苦悶したような、少し寂しいような、そんな顔をして貴方が言う。
夕暮れの朱が貴方の漆黒の髪を染め、肌を染め、地を染めた。
少し眩しいその光にも目を開いて私はあなたの顔を見据える。
そうして口をつぐんだままの私に彼は苦笑し、つまらぬことを言ったと謝罪した。
言葉数が少ないのは解っていた。
肯定と否定だけを述べ、必要なこと以外を話すのは苦手だった。
好きだと何度も言われたが、私からその言葉を伝えたのは一体何回だろう。もしかしたら一度もないかもしれない。
けれど、もちろんその感情は私にもある。
でなければ自分から好んで会いに行ったり、体を触れさせたりしないだろう。
そっと、私は唇を噛んだ。
「…あなたは私の言葉を聞きたがるけれども、私が伝えたいのは言葉ではないのです…」
伝えるつもりはなかった呟きは気付けば口からこぼれ落ちていて、彼を困惑させたようだった。
少年のように純粋な目を開いて、ハッと息をのむのが分かる。
今ならこの気持ちが伝わるのだろうかと、私は互いのグローブを地に落とし、彼の右手を両手で包んだ。
聞こえますか。
貴方を前にすると、不格好に早くなるこの左胸の拍動が。
見えますか。
何を言ったら良いのか躊躇い、けれど貴方と話をしたさに何度も戦慄くこの口唇が。
感じますか。
あなたの一挙手一投足、逃したくなくて追いかけていまうこの視線を。
わかりますか。
あなたを、あなただけを思う、この、心が。
何分間そうしていたのだろう。
気付けば爪の先が白くなるほど、ぎゅっと彼の手を握りしめていた。
夕暮れは深くなり、西日のきらきらとした光が地平線の際を飾っていく。
大きく息を吐いた彼は、ふっと表情を崩し目を細めた。
下げた目尻に光ったのは、きっと夕暮れの残光なのだ。
「おぬしには、敵わぬのう…」
左手をそっと重ねながら、彼は言った。
交差する瞳の中に、意味をなさない言葉の欠片が見えたような気がした。
「伝えあいたかったのは、言葉ではなかったはずなのに。」
いつのまに、そんなことも見失っていたのだろう、と彼は小さく呟いた。
弱々しいその声にふいに胸が燻った。
ああまた言葉で伝えられなくて、私はただ優しく、お人よしな黒い瞳に唇を寄せた。
今なら朱い西日のおかげで、染まった頬も気づかれないだろうと、そう、期待して。
夕暮れの言葉足らずな恋人達
9月分
「ライバルが出来たんです。」
そうやって、愉快そうに笑う愛弟子の顔を見たのは数十年ぶりだった。
そしてその事実は、意外にも私の胸に圧力をかけた。
重くなる胸に、そっと手を当てて心の中で首を傾げる。
何でこんなに重苦しいのだろう?
愛弟子の笑顔は愛らしい。大きな目が細まって、目尻がやんわりと下がるのだ。
そんな顔を久しぶりに見れて、嬉しいはずなのに。
「太公望というそうですよ。まだ道士になって日が浅そうでした。」
聞いてますか老子、といつもよりトーンの高い声が私の鼓膜を震わせる。
遭った時の事を思い出しているのか、申公豹は大きな群青色の目を細めてまた一層笑みを深くした。
ああなんだろう、本当に…胸やけしたみたいに、ムカムカする。
小さく息を吐き出して、目を閉じた。
ゆっくりと瞼を上げて、ちらりと横目に四印の刻まれた頬を見れば、出来たばかりの裂傷が目について息を飲んだ。
どうして今まで気がつかなかったのか。
赤々としたそれは、まだ血液が固まって間もないようだ。
たった一本、浅く走った傷だったが、それはまたじりじりと私の胸を焼いた。
なんで、なにが、どうなって、君がそんな傷を負ってくるのか。
「…これは?」
「?ああ、これですか。これもその太公望が付けたんですよ。」
そっと頬の傷に触れて問えば、私のムカムカもイライラも気付かない愛弟子はさも嬉しそうにそう答えた。
その上、私にこんな傷を付けるなんて見込みがあると思いませんか?なんて楽しそうに聞いてくる。
頭の中でどこかがプツンと音をたてたが、果たしてそれがなんの音だったのか見当もつかない。
ただ無性に腹が立って、気付けば頬の傷を治療してしまっていた。
掌がふっと淡く光ってみるみるうちに皮膚が再生する。
一瞬の出来事に、申公豹は大きな目を見開いて私を見た。
「老子…?」
「なに。」
「…治癒術は身体の再生機能を衰えさせかねないからなるべく使わないように、と仰ったのは貴方ではありませんでしたか?」
「…。」
痛いところをつかれて私は押し黙った。
そうだけど。その通りだけど。でもその傷をそのままにしておくのは嫌だったんだ。
ぐるぐると頭の中を旋回する言葉たちを結局口にすることは出来ず、唇を引き結んだままの私を申公豹は物珍しそうに見つめた。
そうして十秒、二十秒、三十秒。
最初に口を開いたのは、やはり私ではなかった。
「老子。」
「…なに。」
「…。…もしかして、妬いてるんですか? 」
「…。」
言われて、合点がいった。
胸が重苦しいのも。胸やけがするのも。イライラするのも。無性に腹が立つのも。
結局、自分の介在しないことで楽しそうに笑う愛弟子に耐えられなかったのだ。
そして、その笑顔を創り出している人物がどうしようもなく妬ましかった。
何千という齢を生きて、未だにそんな感情に振り回されている自分がなんとなく恥ずかしくなる。
それを隠すかのように、目の前の愛弟子をぎゅうぎゅうと胸に抱き籠めた。
(たいこうぼう、太公望…)
愛弟子のお気に入りになった青年の名を、私は口の中で何度も呟いては、苦々と噛みしめた。
老子と嫉妬と申公豹
10月分 *現代パロ
僕の家のお隣りさんは少し変わっています。
まず家が異様にでかい。
ここは都心の一等地でもなんでもないけど、高そうだなって見た瞬間にわかるくらいの大きさがあります。
でも、住んでいるのはどうやら学生さんのようです。
こんなに大きい家に学生で一人暮らしだなんてすごいですよね。
どこぞのお金持ちの子なんでしょうか。僕みたいな凡人には羨ましいかぎりです。
それですね、そのお隣りさん、とっても綺麗なんです。
え?どんな美女かって?いやいやそれが男の子なんです。
ぱっと見どちらかわからなかったんですけど、引越しの挨拶に来られた時の声でわかりました。凜とした素敵な声です。
肌は陶器みたいに白くって、銀色の髪をしています。
目は大きくて青くって、お人形みたいに整った顔をしています。
背はあんまり高くないけど華奢ですらっとしてる…どうです、文字だけでも美しそうでしょう?
…いやいや別に、僕、ゲイとかそんなんじゃあないんですけど、とても素敵なんですって。
男の子だってわかっていてもつい胸がトキメいてしまっ……ちょっと、疑わしい目でみないでくださいよ、まったく。
で、今僕はそんなお隣りさんのインターホンの前にいます。
実は誤配でお隣りさん宛の手紙が郵便受け入っていたのです。
別にポストに投函すればいいじゃないかといわれそうですが、せっかくだから綺麗な顔を拝みたいじゃないですか。
高鳴る胸を押さえながら、インターホンを押しました。
家に電気が着いているので、きっと在宅のはずです。
「はい…どちらさまですか?」
!がちゃっと受話器をとる音がして、あの声が聞こえてきました。
僕は緊張しながら用件を伝えます。
「ああ…それはどうも。わざわざありがとうございます。少しお待ちください。」
僕はまたドキドキしながら扉の前で待ちます。
鍵の開く音がして、中から出てきたのは…
「わざわざどーも。」
思い描いていたお隣さんではなく、鮮やかな浅黄色の髪をした、これまたものすごく美人な男性だったのです。
ちょっと眠そうな目のその人は、モデルか?ってくらい端整な顔をしていて、金色の目を縁取る長い睫毛が揺れるたびに、なんだかおかしな気分になりそうです。
僕は手紙を渡すことも話すことも出来ずにただただ驚いて固まってしまいました。
人間美しいものを見ると感動を覚えるものです。
「あのー…?」
訝しげに僕をみるその男性の声にはっとして、僕はあわてて手紙を差し出しました。
男性の長い指がそれを掴んだ瞬間、中からパタパタとスリッパで駆ける音がしました。
「老子、失礼なことをしてないでしょうねっ…」
「えぇえ、どれだけ信用されてないの、私。」
「だって前も新聞屋さんに…」
「あれは君が彼シャツなんていう魅惑的な格好で出ていっちゃったからしかたな」
「な、なな何言っ…黙って下さいッ!!!」
お隣りさんが慌てて男性の口を手で押さえながら「ちがいます、ちがうんです」なんて僕に必死に言ってきます。
とても魅力的な単語が先の発言に盛り込まれてたような気がしますが、心の平静を保つために聞こえなかったことにしておきました。
とはいえ真っ赤な顔で恥ずかしそうにしているお隣りさんは見ているだけでちょっとムラッと来てしま…ごほん。
「もう、落ち着いて、申公豹。」
ぐぐ、とお隣りさんの手を押しのけた男性。
彼はそのまま何でもないふうに、ちゅ、とかわいらしい音を立ててお隣りさんの唇を塞いでしまいました。もちろん自分の唇で。
「〜〜っ!?」
真っ赤なお隣りさんはさらに真っ赤になって、声にならない悲鳴をあげました。
対する男性は特に慌てた様子もなくこちらを向いて、
「じゃ、確かに受け取りました。わざわざありがとう。」
と爽やかに告げて扉を閉めてしまいました。
僕は目に飛び込んできたたくさんの情報を処理仕切れずに、しばらく重い扉の前で固まっていました。
そしてこう思ったのです。僕の家のお隣りさんは、やっぱり変わっている、と。
お隣さんと老子と申公豹
11月分 *現代パロ
「…?」
嫌な感触に申公豹は眉をひそめた。
通学途中の電車の中。車内は乗車率120%、朝のラッシュアワー。
最初は手の甲が何度か当たっているだけだったのだが、今では明らかに掌で臀部を撫でられている。
上から下、下から上と、最初は慎ましやかだったそれも数秒経てば執拗で無遠慮なものに変わった。
(…きもちわるい…。)
満員電車というだけで気分が悪いというのに、どうしてこれ以上嫌な思いをしなければならないのだろうか。
申公豹は溜息を吐いて扉に手をついた。
大学に近い駅は終点に近いため、いつも開閉する扉とは反対側に立っている。
つまり次の駅で降りることも困難だし、体を捩って逃げることも叶わない。
(最悪、ですね…。)
実を言うと申公豹が痴漢に遭遇するのは初めてではない。
一度目は高校の時で、明らかに男子制服を着ているのになんで痴漢になど遭わなければいけないのかと絶望したものだ。
その時は降りる駅がすぐそこだったためすぐに逃げられたのだが、今回はそういうわけにもいくまい。
出来ることなら捕まえてやりたいが、「男である自分が痴漢された」という事実を周りに知らせなければならないのはプライドの高い申公豹には酷なハードルだった。
どうせ触ってくるだけだ、気持ち悪いが耐えるしかない。そう思っていた。
「っ…?」
しかし後方の男は予想外の行動に出始めた。
しきりに臀部を触っていた手が前に回されて、あろうことか下腹部を撫で始めたのだ。
勿論それをやすやすと放置するわけにもいかず、這いまわる手を止めようと腕を掴む。
しかし、中年の男なのか、自分の1.5倍ほどある腕はそう簡単には止めることができなかった。
ジィっと嫌な音がして、下着の中に指が入り込んでくる。
「ちょっ…、っ…」
ガタン、と響いた走行音に声はかき消された。
焦って、掴む腕に力を込める。後ろを振り返ろうにも人がいすぎてそれすらも出来ない。
「んっ…」
嫌だ。
這いまわる手に、手と声が震える。恐怖と情けなさに逃げ出したくなって、でもどうにもできなくてぎゅっと目をつぶった。
丁度その時。
「――なにをしている。」
張りのあるバリトン。
咄嗟に目を開けると、くすんだブロンドの髪のスーツ姿の男性が痴漢の手を捻りあげていた。
幾分開いた身体と身体の隙間から顔を見る。
涼しい顔の男性とは反対に、脂汗をかいた痴漢の顔は焦って真っ赤になった。
「な、なんだね君はっ…」
「なにをしていると聞いているんだ。」
「な、なにも…?私がなにをしたというんだね?ええ!?」
見苦しく叫び出す男に周りの乗客もざわめき始める。
瞬間、駅名を告げるアナウンスが流れ、扉が開いた。
男は申公豹の手と痴漢の手をひっぱりながら人ごみを押しのけて車外へと連れ出した。
なおも喚き散らす痴漢に男が射殺せそうな視線で睨むと、小さく悲鳴をあげた痴漢は、そのまま駅員に突き出されて御用となった。
あっという間の出来事に、まだ茫然としたままの申公豹を男が覗きこむ。
「…おい、大丈夫か?」
掛けられた声に我に返った申公豹は、慌てて頭を下げて礼を言った。
「す、みません…ありがとう、ございました。」
「かまわん、気にするな。」
「なにかお礼を」
「そんなことしなくていい、当然のことをしただけだ。」
「しかし…。せめて、名前だけでも。」
「…今どき珍しく、義理堅い奴だな。」
くい下がる申公豹に、仏頂面だった男はふっと笑みを漏らしてそう言った。
ホームに革靴を鳴らして去る間際、助けてくれたときと同じ良く通るバリトンで男が告げた。
「…聞仲だ。大体同じ電車にのっている。礼がしたいのなら好きにしろ。」
すぐに人ごみに紛れてしまった聞仲の姿を何とか目に焼き付け、今度会ったらもっとちゃんとお礼を言おうと申公豹は頷いた。
痴漢と申公豹と聞仲
12月分
まだ誰も侵していない雪の上を歩く。
昨日から降り出した雪は思いのほか積り、足首まで易々と埋まる。
「冷えてしまうよ、申公豹。」
埋まった足を眺めていると後方から声がかかった。
「老子…。」
振り返るとふわりと身を浮ばせた老子がそこにいた。
朝焼けの中、光を照り返す浅葱色の髪が淡く光っている。
それを見て唐突に、彼と初めて会った日のことを思い出した。
私の庵を訪れたその日も、こんな風に雪が積もっていた。
あの日と変わらない声。
あの日と変わらない美貌。
あの日と変わらない瞳。
そのすべてが私を捕えている。今も、昔も。
あの頃は全てに拒まれていると思っていた。
人も動物も世界も、不完全で奇怪な私を拒んでいる、と。
その世界と私を繋げてくれたのが老子だった。私を審判せず、私を受け入れ、そして与えてくれた。
「ほら、もう帰ろう。寒くてかなわないよ。」
「ならば外に出てこなければよかったではないですか。」
「君が心配だからでてきたのー。」
「何を心配する必要があるというのです。貴方は過保護なんですよ。」
「つい先日風邪をこじらせた挙句、意識吹っ飛ばしてたのはどこの誰だったのかなぁ。」
「あ、あれは間が悪かっただけです。」
「はいはい、いいから帰る。ほら、おいで。」
心配なんてして、当たり前のように彼は私に手を差し出す。
躊躇いがちに手を伸ばしながら、私はあの日と変わったものもあるのだと知った。
あの日と変わった声色。
あの日と変わった表情。
あの日と変わった目線。
どれも怖いくらいに優しく、甘くなった。
老子から与えられるものと己の不均等さに耐えきれなくなって逃げ出した時期もあった。
居たたまれない日は今もあるけれど、逃げ出そうとは思わない。
私の。
私の冬≠ヘ、貴方という春が来て消え去ったのではない。
貴方という雪と共にある。凍えきった私の身体と近似した温度で寄り添い傍にいてくれる。
優しく。
どこまでも優しく。
互いの指先が触れた。
なんだか急に恥ずかしくなって下を向くと、上方からクスクスと笑う声がした。
それにむっとして手を引っ込めようとする先にきゅっと手を組まれてしまった。
「残念、離してあげない。あーもうこんなに冷たくなって!」
「ちょ…っと!やめてください!!さ、わり方がいやらしいんですよ貴方はっ…」
「聞こえなーい。」
いつのまにか浮遊を解いた老子に手を引かれながら、家まで連れ立って歩いた。
何度も、何度も喉まで出かかった言葉はまた今度貴方に伝えよう。
これからも、傍にいてください、と。
雪と春と師弟
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