■2013年 拍手お礼小話■

1月分



そっと腕を伸ばして、申公豹の手から落下しそうになっている書物を取った。
色の薄い瞼が、印象的な群青色を隠している。

(眠ってしまった、のう…)

数分前から舟を漕いでいた申公豹は、ついに夢の中に堕ちてしまったようだった。
隣で座りながら眠る横顔に、目が引きつけられる。
緩く結われた白金の髪も、意外と長い睫毛も、薄く開かれた唇も、なんでまたこんなにも自分を魅了するのだろう。
室内は決して暖かいとは言い難い気温なのに、自分の周りだけ熱が籠っているかのように暑く感じる。
早まる拍動にこれはいけないと視線を逸らし目を閉じたが、瞼の裏でさっきの横顔が再生されるだった。
これはもう、あれではなかろうか。
据え膳食わぬは、なんとやら。

(いや、いかんいかん…!)

ばっと伸ばした腕を、もう片方の手で押しとどめる。
寝込みを襲うなどしてみろ、今後一切触れさせてもらえなくなるかもしれない。
なけなしの理性で身体を反転させ、重たい息を吐いて頭を抱えた。

「…好きだ、」

好きだ、好きだ。
小さく、吐息のような声で呟く。
一度口に出してしまえば、その気持ちは溢れかえるようだった。

「こんなに好きなのだ、」

その言葉で口を閉じた。
しん、と室内が静かになる。いつのまにか、申公豹の寝息も聞こえなくなっていた。
…ん?寝息も?




「…私も。」

聞きなれた声がした。
慌てて振り返るが、そこには数十秒前のままの光景が変わらずにあった。
目を閉じて、眠る申公豹。
薄く開いた口は寸分変わらず、言葉を零した形跡すらない。

「寝言…か…?」

残念なような、ほっとしたような、そんな気持ちで顔を片手で覆う。
ついに幻聴まで聞こえ出したかと嘆いたその時。




「…寝言です…。」

なんて、控えめな声が届いたものだから。
もうこの可愛くて可愛くてどうしようもない生き物を、離してなどやるものかと強く抱きしめた。



寝言と申公豹と太公望


2月分



「えっ、ないんですか!?」
「ええ。」
「そんな…」

ばかな、と崩れ落ちる僕を尻目に申公豹は優雅にお茶を飲んでいる。
なんとも穏やかな昼下がりだ。今日がバレンタインデーでさえなければ。

顔を合わせて開口一番、「チョコレートはありません。」と彼はきっぱり言い放った。
あまりにはっきりいうものだから、はいそうですかとあっさり流しかけたくらいである。
去年は有り難くも手作りチョコなんて頂いてしまって、本当に嬉しかった。
だから今年も期待してしまっていたのに。
どうしてないのですか、とは、あまりに女々しくて聞けない。
項垂れながらちらりと申公豹をみると、同じようにこちらを見ていた群青色と目があった。
気まずそうにそろりと逸らされた目を不思議に思って、首を傾げる。
申公豹は一度きゅっと唇を引き結んで、すぅっと息を吸い込んだ。

「チョコ、は…ありません。が、別のものはあります。」
「え?」

それってなんですか?と僕は目を輝かせた。
すると彼はゆっくりと、そうゆっくりと。

自分自身を、指差したのだ。




「え…?えっ!?」

驚いて申公豹をみると、彼はふふふと声をもらして悪戯っぽく笑った。
照れたように頬を赤らめてそんなことをされたものだから、僕はチョコレートなんかより数百倍は美味しそうなその唇を奪いにいった。



楊ゼンと申公豹のバレンタイン



3月分


普段は触れるだけの足をそっと絡ませて、閉じた瞼にゆっくりと指先を伸ばした。
私を絡め取る金色は、今は夢の世界を見ている。


(まだ、起きないで、くださいね…。)


そっと、声に出さずに口だけで呟いてみる。
規則正しい寝息は乱れない。
瞼の上の指を移動させる。眉間、鼻筋、薄く開いた唇。
昨日は傍若無人に私を侵したその唇は柔らかく、この唇がどうしてあんなに私を追い詰めるのだろうかと不思議に思うほどだった。
そのまま指を滑らせて、顎、喉仏、鎖骨の間。
くすぐったいのか、肌が少し震えて、慌てて指を退けた。どきどきしながら顔を伺うが、目覚める気配はない。
普段あんなに寝穢いのだ、多少のことでは覚醒しない…はずだ。
気持ちが少し大きくなって、私は何も纏っていない白い胸板にそっと耳を押しあてた。
とくとくと心臓の音がする。
心音は、母親の胎内を思い出して落ち着くのだという。
母親にあまり良い思い出の私でも、それは同じだった。
散々化け物だ鬼だと罵られ続けた私でも、やはり人の子だったのだと可笑しくなった。


(ああでもどうして、貴方の心音を聞くと。落ち着くのに、どこか切ない気持ちになるのです。)


しばらく音を聞いていると睡魔が襲ってきて、私は重くなる瞼を抗いもせず閉じた。
閉じた瞬間、体をぎゅっと抱きしめられる。
驚いて、顔を上げた。


「なに、かわいい事しているの。」


そう言ってふわりと笑う師がそこにいた。
慌てて体を離そうとしても、もう抱き籠められて逃げられない。
絡めた足も解くことができないまま、ただただ恥ずかしくて金の目から視線を逸らした。
状況証拠はそろっている。もう何を言っても相手を喜ばせるだけだと悟って、私は口を閉ざした。
そんな私に気付いてか、老子がクスクスと笑う。
彼が動く度にでるシーツの擦れる音が、妙に生々しかった。


「なぁに、昨日のじゃ足りなかった?」
「ち、違いますっ」
「そうだよね。だって途中で気絶しちゃったもんねぇ、申公豹。」
「ばッ…」


ばかっ、と発した声は老子の口内に溶けていった。
重なった唇からぬるりと舌が入り込んでくる。
ああもうやっぱり、この唇は無遠慮だ。口内だけじゃなく、私の思考も荒らしていくのだから。


ぎゅう、と抱きしめる力が強くなる。私も、老子も。
切ないほどの愛しさが、伝わるように、と。



お布団と老子と申公豹



4月分


両端の屋台と密集した人の熱。
がやがやと、奥の宴会に騒ぐ声。
見上げれば満開の桜。
ぼんやりとした灯籠の明かりをうけるそれはどこか不気味でありまた神秘的でもある。


もともと騒がしい場所は苦手だった。
1人でのんびりしている方が楽だし、もみくちゃにされながら歩くのも鬱陶しくてかなわない。
けれど最近は。


「…し、老子!」
「んー?なぁに?」
「あそこの…枝垂れ桜が――、」
「え?…なんて、」
「ですから――」


ぐ、っとすぐ傍に君の顔がやってくる。
普段は恥ずかしがって詰めてこない距離を、この煩い空間では自分から詰めてくれる。
そんな些細なことがきっかけで、私は騒がしい場所がそれほど嫌いではなくなったのだと伝えたら、
きっと君は「バカじゃないですか」なんて言って呆れるんだろう。


間近で揺れる髪を、見上げる目を、今すぐに全部手に入れてしまいたくなるけれど。
それはまぁ、今夜のお楽しみということで。



花見と老子と申公豹


5月分


浮きあがった鎖骨、その間からやや左斜め下。
其処にある小さな黒い点。
詰まった服は苦しいからと、仕事着以外はいつも襟ぐりの大きくあいた服を着ているからそれがよく見える。
インドア派で外に出ない肌は白く、ぽつりとその黒子は浮き上がって見えた。
何となしに、じっとその一点を見つめる。
それまでは良かったのだ。
何故そうなったのか分からない。
気付いたら近づいていて、気付いたら唇を寄せていた。
ちゅ、と室内に可愛らしい音が響く。
自分の唇と相手の肌が奏でた音だと気付くまでに、相手も自分もたっぷり10秒はかかった気がする。


「へっ?」
「え…?」


最初に声を上げて驚いたのは老子。
その声に驚いて、ついでに自分のしていることにも驚いた第二声は私。
ぶわっと耳まで熱くなって、逃げるように私は後方に飛びのいた。


何を。

何をした?
何をしている?
キス、した?
どうして?どうして!


逃げよう、取りあえずここから逃げよう。
そう思って後ろを向いたらがしりと手首を掴まれた。
その手の暑さに眩暈がしそうだ。


「申っ、」
「ちが、違うんです!事故です、ただの事故!!だから忘れなさいっ!!」
「そんな無茶な!」


ぐるっと反転させられた体は老子に抱き籠められてしまった。
ジタバタ暴れてもぎゅうぎゅう絞めつけられるばかりで余計にしんどくなるだけだ。
荒くなった息を整えて見上げた相手の顔は自分よりも大分マシだがやはり赤く、口元は不自然に弧を描いている。
つまりはニヤけていた。


「ニヤニヤしないでくださいっきもちわるいですね!」
「そんなこと言ったって申公豹が可愛い事するんだからしかたないじゃない。そんなに私を喜ばせてどうするの?」
「そんなつもりじゃないです、ただなんだが目がいってしまって、気付いたら勝手に…っ」


そこまで言って押し黙る。言葉を紡げば紡ぐほど墓穴を掘っているような気がした。
くすくすと楽しそうに笑う声が頭から降ってくる。
髪に鼻先を擦りつけられる。こそばゆくて頭を振ると本格的に笑う声が頭上からした。


あいかわらずぎゅうぎゅう抱きしめてくる痩身の背中に手を回そうかと思ったが、やっぱり悔しいので手は引っ込めておいた。



老子と黒子と申公豹


6月分


*老子が後天性全盲です


弟子をとった。
凛とした、綺麗な声の男だ。
芯があるけどどこか歪な心と、危ういぐらいの力をもっている。
容姿は分からない。
なぜなら私の目は世界を見つめることをとうの昔に放棄してしまったからだ。


「顔、触ってもいい?」
「…。…少しだけなら。」


衣擦れの音がして、君の気配が近くなる。
そっと差し出された上半身に腕を伸ばし、両手の指でおそるおそる頬に触れた。
弾力のある肌を掌で包む。
肌荒れのない、滑らかで吸いつくような肌だ。


「色白?」
「さぁ?どうでしょうか。あまり焼けないので、白い方なのでは?」
「なにそれ、自分のことなのに。」
「自分の事だからでしょう?」


私が笑うと、彼もふふふと声を漏らして笑った。
触れている頬が震える。
指を上に移動させて、瞼に触れた。
薄い皮膚の向こうで、眼球が動くのが分かる。


「大きな目だ。」
「ああ、それはそうかもしれません。」
「何色の目?」
「青ですよ。」
「天色?群青?瑠璃色?それとも濃藍?」
「そんな微妙なこと言われましてもね…群青色くらいでしょうか。」
「ふぅん。睫毛は?」


瞼を撫でて、睫毛に触れる。柔らかく、細くて長い。


「白。」
「白?」
「ええ。」
「へぇ。じゃあここも、同じ色なんだ。」


さらに上に手を伸ばし髪に触れた。
一房摘んで指を離すと、さらさらとこぼれ落ちる。


「そうですね。髪の方が、少し銀に近いです。」
「へぇ…。」


手に入れた情報で君を形作る。
今日は陽射しが強そうだから、君の髪はきっと太陽の光でキラキラと光っているに違いない。
視力を失ってから後悔などしたことがなかったのに、君の顔が見れないことは残念でしかたない。
きっと、綺麗な顔をしているだろうに。
直感だけれども、そんな気がするんだ。


「くすぐったいですよ、老子。」
「もうちょっとだけ。」


髪からまた、顔に戻る。
すっと通った鼻に、柔らかい唇。
色々と触りまくっていると、くすぐったそうに申公豹は顔を振った。


君から得た情報と、この指から得た情報で君を想像する。
瞼に焼きつけた姿は、しばらく消えそうもなかった。



目の見えない老子と申公豹


7月分



「いちゃいちゃしたい。」
「嫌ですよ暑苦しい。」
「ひどい!黒ちゃんとはそんなにひっついてるじゃない!」
「まぁ……なんですか。その…気持ちが?」
「なにそれ余計酷い…っ」


もふ、と申公豹がボクの首元にさらに抱きつくと、後ろから見ている老君の恨めしそうな視線が刺さってきた。
申公豹に抱きつかれるのは嬉しいのだけど、痴話喧嘩に巻き込むのは止めてほしい。
仕方なしに申公豹に離れるように促そうかと思っていたら、ぼす、と身体に重みがかかってきた。


「ちょっ…老子、退いてくださいっ」
「いーやー」


首が重すぎて動かないので目だけで二人を見ると、申公豹に背中から抱きついてる老君が見えた。
申公豹の耳や首筋にたくさんキスを降らしている。


「やめっ、も…いい加減にしてくださいっ」
「黒ちゃんじゃなくて私に抱きついてくれたら止める。」
「何を馬鹿なっ…や…っ…」


あーもー老君のばか…そんな言い方したら、申公豹は意地でもボクを離さないに決まってる。
ぎゅうっとさらに抱きつかれて、心拍数が上がっていくのが分かる。
師匠兼恋人からの愛撫に耐える主人の甘ったるい声を耳元で聞かされて、変な気分になりそうだ。


「ねぇ、黒ちゃん。」
「…なに。」
「かわいいでしょ?わたしの$\公豹は。」
「――っ知ってるよそんなの!」


かわいいに対してなのか、所有格に対してなのか、答えた自分自身良く分からなかった。
けれど勝ち誇ったように微笑む老君に無性に腹が立ったのは事実だ。
今度はボクが、老君に恨めしい視線を送るはめになった。


「でも、申公豹の相棒はボクただ一人だからね。」
「ふぅん、言うねぇ。」


金色の目に、ひるみそうになる。
けれどそこは霊獣の意地で視線は逸らさなかった。


負けてられないよね。だって主人を守るのが霊獣の役目でしょう?



黒点虎と嫉妬と老子と申公豹


8月分


※申公豹の足が不自由です


「老子」


寝室から君の声が聞こえる。
扉を開けると、床に座りこんだ君と目があった。
大きな群青色の目が、上目づかいに私を見る。


「…おはよう、申公豹。ごはんにしよっか。」


***


あれは数年前の朝だった。雨上がりの晴れあがった青空と柔らかい太陽光。
凛と伸びた身体が、私が支える暇もなく地に崩れ落ちたあの光景は今も忘れられない。
きょとんと、大きな目をさらに開いて呆然とする君の顔。しんと静まり返る部屋。近寄れない私。


――あの日から、君の足は自由にならない。




「寝台から降りる前に呼んでって言ってるのに。」
「嫌ですよ。起きるために寝台の上からあなたを呼んで、何度寝台に逆戻りするハメになったか…。数えるのも馬鹿馬鹿しい。」
「だって、寝起きの君ってかわいいんだもの。鏡で見たことある?」
「…あなたの目が腐っているだけです。ほら、いいから早く運びなさい。」


そう言って君が両の手を伸ばす。
ねだる様なその仕草が可愛くて、思わず笑顔になった。
足が不自由になる前は、君はこんな風に私を頼ることはほとんどなかったものだからなんとなく嬉しくなるのだ。


寝間着の裾から覗く足は筋肉が落ちて、折れそうなくらい細い。
華奢すぎるその脚を見るのは何となく億劫で、私は目をそらした。
ぐっと力を入れて身体を持ち上げる。
小柄な君でも、下半身の脱力した身体を持ち上げるのはなかなか労力がいる。
それでも君の両手が縋るように私の首に絡みついてくると、えもいわれぬ歓喜が、ざわざわと、私の胸を満たすのだ。


「さて、今日の朝食はいかがいたしましょう?お姫様。」
「っだ、誰が姫ですか!誰がッ」



歩けない申公豹とそれを愛でる老子


9月分



「――あ。雨だ。」
「おや。」


空の散歩中、落ちてきた水滴にボクが上を見上げると、申公豹も同じように上を向いた。
ぽつぽつとリズムを刻む雨音は徐々に早くなってくる。
勢いのある、通り雨になりそうだ。


「駆けようか?」
「いいえ。そのままで。」
「ええ!?びしょ濡れになっちゃうよ?」


ああなんだか前にもこんな事があったとボクは思った。
自然の恩恵が好きなこの主人は、自分の身を顧みずに色んな事をする。
大雨の中をわざわざ散歩にいったり、紅葉の落ち葉にダイブしたり。まぁとにかく話題に事欠かない。
それに付き合ってるボクもボクなんだけど。


「今日はやめようよ…もう肌寒い季節なんだからさ。」
「ふむ…。まぁ、それもそうですね。ではこうしましょう。」


そう言うと、申公豹は指先でとんと空中を叩いた。
ぱちんと小さく音がして、円形の透明な膜がボクたちの周りを覆っていた。
ボクが不思議そうに視線を向けると、申公豹は大きな群青色の目を細めて笑った。
優しいまなざしに、ついつい頬が緩む。


「…これって防護壁?」
「そんな大層なものではありませんよ。雨を凌ぐ程度のごく薄い膜です。」


膜の中で喋ると、少し声が籠って聞こえた。
ばたばたと、雨粒をはじく音がする。
申公豹も、老君も、宝貝を使わないで色々面白い事をするものだ。
それはあるいは、術と呼ばれるものなのかもしれない。


「あなたが風邪をひいては困りますからね。」


きょろきょろと膜を見渡しているボクの額を申公豹が撫でる。
グローブ越しなのに、その掌はとても温かく感じた。


「ボクだって申公豹が風邪ひいたら困る。」
「おや。私たち相思相愛ですねぇ。」
「ええぇ、普通そういう言い方するぅ?」


笑いながらボクが答えると、申公豹も同じように笑った。
ばちばちと雨をはじきながら、ボクらはゆっくりと雨の中を駆けた。



雨と申公豹と黒点虎


10月分


「下(人間界)でハロウィンという行事をやっているそうです。」
「ふぅん。」


生返事をして、また机に突っ伏しそうになっている太上老君の両肩を申公豹が激しく揺すった。
首が据わっていない赤子のように、がくがくと頭が揺れる。


「なに寝ようとしているんですか。あなたも行くんですよ。」
「えぇえ?私も行くの?」


口には出さないものの、太上老君の顔は「めんどくさい」と語っていた。
申公豹はそれに気付かないふりをして、きらきらとした瞳で説明を始める。


「ハロウィンはヨーロッパを起源とする民俗行事で…」


よくもまぁそんなに口が動くものだと思うほど喋る申公豹を、太上老君はやや呆れた様子で眺めていたが「仮装をする」という一点においては興味がわいたようだった。


「仮装、ねぇ…。君ってそのままでも十分いけるんじゃないの?」
「はい?何を言ってるんですか。これは私服です。」


分かりきったことを聞くなという冷たい視線を受けながら、太上老君は口角を上げて一つ提案をした。


「そうだなぁ。君が私の勧めた仮装をするっていうのなら行っても良いよ。」
「?」


こてんと首を傾げながら、まぁそれぐらいの条件で行ってくれるのならと申公豹は了承した。
…が、数十分後下界の仮装衣装売り場で激しく後悔した。


「はい、これ。」
「っはい、これ、じゃないでしょう!?何ですかこれは…っ」
「何って…赤ずきん…?」
「そんな首かしげて答えても可愛くないんですよっ、なんでまたこれなんですかっ」
「私が見たいから。」
「なっ…」
「別に小悪魔でもいいよ?あーでも肌の露出がなぁ…」
「余計嫌ですっ!」
「うんうん、じゃあ着ようか。早くしないと始まっちゃうよ。」
「っ…今回だけですからね…」


地を這うような声で着替えに向かう申公豹を意地の悪い笑みで見送った太上老君は、自分も衣装を選んで着替えに向かった。
数分後、着替えを終えた太上老君が一足先に出てきた。
申公豹はというと、着なれない服で時間がかかるのか、はたまた恥ずかしくて出て来れないのか、まだ更衣室の中だった。


「入るよ?」


一声かけて、太上老君が更衣室の扉を開けた。
いつもの黒の燕尾のケープではなく、鮮やかな深紅のケープが視界に入る。
振り返った申公豹は、居心地悪そうに視線を落とした。


「やっぱり良く似合う。」


上機嫌で太上老君が呟く。
深紅の頭巾型ケープに、黒のリボンの編み上げがついた白のトップス。
深紅と黒のミニスカートに、黒のガーターベルトとニーハイソックスに包まれた脚の先は黒のピンヒール。
どれも申公豹の白い肌によく映えていた。


「…歩きづらくって仕方ありません。それより、なんです、あなたの格好は?」
「そりゃあ、もちろん、狼男だよ。」
「正装に耳としっぽが付いているだけじゃないですか!」
「えぇ?ひどいなぁ。素敵じゃない、このジャボタイとか。」


ひらひらとジャボを揺らしながら太上老君が答える。頭には焦げ茶のふさふさとした獣耳、お尻には尻尾が付いている。
にっと持ち上げた口元には、造り物の牙が覗いていた。
太上老君を追い抜いて更衣室から出ようとする申公豹を遮って、パタンと更衣室の扉が閉まる。


「…。何のつもりです。」
「狼男は、赤ずきんを食べるんだよ。申公豹。」
「っ…!」


二人では手狭な更衣室の壁に申公豹の背中が押し付けられる。
見下ろしてくる金色の目は、なるほど。まさに狼男に相応しく獣じみていた。
耳元で笑う声に、申公豹が小さく舌打をする。


「――お腹にたらふく石をつめこんでやりますから、覚悟しなさい。」


おお怖い、と呟いた狼男は、いただきますと赤ずきんに牙を立てた。



狼男と赤ずきん


11月分


※モブ男が出てきます。



それは朦朧とした意識の中で見た幻だと思っていた。



(氷漬けの、道化師…?)

脚も指先の感覚もない。雪山での遭難だった。
吹雪の中、仲間ともはぐれ力尽き、冷たいのかすらも分からなくなってしまった雪原の上で横たわっていると一陣の風が吹いた。
弾みでごとんと大きな雪が落ち、現れたのは大きな氷の塊。
霞む目で見上げたその中には人が入っていた。
白金の髪の、道化服を着た小柄な人だった。
肌は雪に溶けてしまいそうなほど白いが、死人のそれとは違っていた。

何故こんな所でこんなことに?そもそもこれは人≠ネのだろうか?

疑問に答えを出せるはずもなく、俺の意識はそこで途絶えた。
それが60年前の話だ。


そして俺はまたひとり、死の間際にいる。
あんなことが遭ったにもかかわらず、指の一本も失わず健康な体で寿命を全うさせてもらった。
これから枯れるように死んでいく。
畳に引いた布団の上に横たわり、開け放った襖から見えるのは丹精込めて育てた見事な枝垂れ桜だった。
ああ。
こんな、桜舞う暖く素晴らしい季節に、どうしてあの雪山でのことを思い出すのだろう。
きゅうっと深く目を閉じ、目を開けると驚きに息をのんだ。

一本の桜の前には、あの道化師が60年前の姿のままに立っていた。
違うことといえば、真っ白かった頬に赤味がさし、閉じられていた瞳が開けられていることだった。

「こんにちは。いつぞやかの死にかけの青年さん。」

にっと緩く吊り上がった口元から凛とした声がこぼれる。

「あ、」

俺のしわがれた声は、喉に引っ掛かってしまって道化師には届かない。

幻だと思っていた。
今際の際に見た夢なのだと。
けれど忘れられなかった。
姿も容も纏う雰囲気さえも美しいこの道化師を、いつもいつも思い出していた。
今この瞬間に分かった。
これは一目惚れだったのだ。

音もなく近づいてくる道化師にもう残り少ない命を燃やして手を伸ばす。
恭しくグローブを取った道化師が、重力に従って落ちる私の手を取った。
あの時氷漬けだった冷たそうな手は春の日差しのように暖かかった。

「…ゆっくりお眠りなさい。看取るものがいれば心も安らぐでしょう。それが赤の他人でも。」
「――あ んた が すき だ っ  た 」






「申公豹は気紛れだね。」

死体の開いた目を伏せて後ろを振り向いた申公豹に黒点虎が呆れたようにそう言った。
肝心の主は、不思議そうにこてんと首を傾げた。

「そうですか?」
「そりゃあ、そうだよ。雪山にいたのも気まぐれ。そいつを助けたのも気まぐれ。
そいつが探してたのに姿を現わさなかったくせにそいつのことは何かと気にかけてたのも気まぐれ。死に際にわざわざ会いに来たのも気まぐれ。」

そうでしょ?と自分によじ上る申公豹に投げかける。
背中に無事に跨った身体は、返事をせずにただただ微笑んでいた。



夢を追い続けた男と申公豹



12月分


月が昇っても庵に明かりがともらない。
夕刻目覚めたばかりだというのに、あの人はまた眠ってしまったのだろうかと思いながら申公豹は暗い庵の扉を開けた。


「老子、また眠って…」


真っ暗だと思った部屋の中にはぽつんと小さな明かりがついていた。
橙色の炎。
じっとその炎を見つめていた金色の目がこちらを向いた。


「おかえり、申公豹。」


ふっと口元をゆるめて微笑うその顔は、淡い灯りの中でぞっとするほど艶やかに映る。
もう見慣れてしまった顔なのに、どきりと心臓が鳴った。
こんなものを見続けては中(あ)てられてしまう、と太上老君から視線を逸らすように、申公豹は炎に視線を移した。


「…これは?」
「蝋燭。棚の奥に一つだけあったから点けてみた。」


立っているのも所在なく、申公豹は太上老君の向かいの椅子に腰を下ろした。
ゆらゆらと、炎が儚げに揺れている。
指の先ほどの炎では部屋は仄暗いが、お互いの顔を見るには十分だった。


「炎の揺らぎが恋に効くって本当かなぁ?」
「何ですかそれ。」
「そんなことを、聞いたことがあるよ。ねぇ、申公豹、惚れ直した?」
「何を馬鹿なことを…」


何世紀もまたにかける仙人が、そんなことを言い出すのだから面白い。
くすくす笑ってとおどけてみせる太上老君に、申公豹は小さく笑ってこう言った。



「これ以上、どこに惚れるというんです?」



きょとん、と金色の目を見開いてあっけにとられること30秒。
太上老君は一度噴き出すと、そのまま声を上げて笑いだした。


「っふ、あはは…きみって子は、あはははっ、あーもう、ねぇ、きみってやっぱり最高だよ、申公豹。」


ふっと、炎が掻き消える。
じゅっと蝋を焼く音と同時に、唇の重なる音がした。



申公豹と老子とキャンドルナイト




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