■2014年 拍手お礼小話■
1月分
細やかな砂利を踏みしめた。
かつて独り立っていた大地に、今は傍らに霊獣を従えて立っている。
「何にもなくなっちゃってるね、申公豹。」
「…ええ。」
上(仙人界)へきて、もう何世紀かが経っていた。
踏ん切りがつかなくて訪れることが出来なかったかつての故郷は、いつのまにかただの荒れ地へと変わってしまっていた。
ぼんやりとした記憶をたどりながら足を踏み出す。
この辺りがよく遊んだ場所。
この辺りが集会が開かれた場所。
この辺りに大きな木があって。
ここらへんには橋がかかっていた。
ああこの奥の方が、
「この辺りが私の家。」
まっさらな大地。
ここに何があったかなんて、もう私以外知る者もいないのだろう。
そう思うと、良い思い出などほとんどなかったのに、どうしてか哀愁を感じていた。
「申公豹…?」
その場から無言で動かない私に、心配そうに黒点虎が声をかける。
返事が出来なかった。
大丈夫だと、言ってやらなければいけないのに。
言葉を発すれば、声が震えてしまいそうだった。
唇を噛んでいると、背後に良く知った気配が現れて私の目を両の手で塞いだ。
鮮やかな橙。馴染んでしまった香り。
首筋にかかる柔らかい髪。
耳に注がれる落ち着いた声。
「――申公豹、」
「…はい?」
「思いはね、閉じ込めなくていいんだよ。」
「っ…、――…ッ…」
失ってしまったものを前に哀しくて。
新しく得たものを後ろに嬉しくて。
私は泣いた。
今は崩れそうになる身体を、そっと支えてくれる者たちがいる。
親愛なる故郷へ。
私はこの哀しさと優しさを背負って、これからこの足を踏み出します。
新しい、大地へと。
師匠と霊獣と踏み出した弟子
2月分
自然に心動かされるのか、はたまた昔々に住んでいた庵を思い出すのか、愛弟子は雪が好きだ。
(あーあぁ、あんなにしていたら、手が真っ赤になってしまうのに。)
銀世界の中に霊獣とはしゃぐ弟子を玄関から眺める。
雪に触っているだけで「はしゃぐ」と言うのはどうかと思われるかもしれないが、あの楽しそうな顔は確かにはしゃいでいるのだ。
他人の目には作り笑いみたいに見えるかもしれないけれど。
「ぅああ…寒い…。」
玄関に立っているだけでも吹く風は肌に痛いほど冷たいのに、申公豹は普段と変わらぬ格好で外にいる。
なんで冷たい雪を触るのに、わざわざグローブを外してしまうんだろう。
素手で雪を触っているせいで、遠目でも色白の肌が赤く染まっているのが分かる。
渋い顔で申公豹を見ていると、群青色の目がこちらを見た。
頬も鼻頭も赤く染めて、吐く白い息が半分彼の顔を隠す。
「老子、何をそんな中途半端な所で止まっているのです。貴方もこっちにいらっしゃい。」
「ええぇ…嫌だよ、寒いんだもの。ここで見てるだけで十分だよ。」
「全く…つまらない人ですね、大体そんなに寒いなら部屋に入っていたらいいでしょう?」
嫌だよ、だって中に入ったら君の姿が見えないんだから。
とは、呆れられるのが目に見えているので口には出さなかった。
何も答えない私に興味をなくしたように、申公豹はまた雪をすくいあげて、眺めている。
太陽光が、雪にきらきらと反射してとても眩しい。
ぶわ、とまた風が吹いて、私の肌を刺した。
「あーああ、だめ、やっぱり寒い…!」
眺めていたいのはやまやまだけど、やはり寒い。寒すぎる。
ついに寒さに負けた私は、ぎゅっと目を閉じて家に入ることを決めた。
愛弟子は、きっとまだ小一時間はああしているだろう。
あんまり長い間いるようなら、一度中に入るように言わないと。
そう思いながら、くるりとうしろを向いた瞬間。
「―――――っぅひゃあっ!!」
キンキンに冷えた手が、私の首筋に触れた。
突然のことに声もひっくり返る。
「っぷ、ふ…あは…っ、聞きましたか黒点虎っ、今の声…っあは…」
「聞いた聞いた!あははっ」
あわてて首に触れながら振り向くと、大笑いしている愛弟子と霊獣の姿があった。
そりゃあもうお腹かかえて笑っている。
こんな悪戯にさえ、気配を一切消して近づいてくる辺りが憎らしくて、そしてまた愛らしくもある。
「っの…!」
「ふふふ、まさかそんな荒い攻撃で私を捕まえようなんて思ってないでしょうね?老子。」
「言うねぇ?逃げられるもんなら逃げてごらん。」
子どもの遊び過ぎる、と思った。
でもきっと相手も同じことを思っているんだろう。
ならばたまにはこんな余興も良いだろうと、私は銀世界を駆けだした。
師弟と霊獣と雪遊び
3月分
「…夜桜ですか?」
後方から突然掛けられた声に申公豹は振り返らなかった。
おそらくそこにいたのを知っていたのだろう。驚いた素振りも見せず、ただ水面を見つめたまま静かに微笑んだ。
「ええ。」
呟くように返事がくる。
自分の足音でかき消えてしまいそうなその声を、楊ゼンは大事に拾った。
「水面に月と桜が反射して、美しいでしょう?散った花びらが浮いているのが、また何とも儚いではないですか。」
小さな池の周りを、たくさんの桜が縁取るように立っていた。
月光を受けて、ぼんやりと光るそれらは妖しくも美しい。
楊ゼンは立ち尽くしている申公豹の横に立って、同じように水面を見た。
真夜中の池は真っ暗闇で底が見えない。
入ってしまえば引かれてしまいそうな、戻ってこれなくなってしまいそうな、そんな雰囲気を感じて楊ゼンはごくりと唾を呑んだ。
そんな傍らの青年の様子を眼の端で捉えて、道化師は一層楽しそうに口角を上げると片足を前へ――つまりは池に踏み出した。
「なっ――!?」
なにをやってんですか貴方は、と言わないうちに楊ゼンは申公豹の腕を引っ掴んだ。
肉の少ない二の腕は、加減を間違えれば折れてしまいそうだ。
前傾した申公豹の身体を勢いで元に戻すと、ぽおんと三角帽が後ろに飛んだ。
結われた白金の髪が揺れる。気に入っている服なのに、と大きな群青の瞳が咎めるように楊ゼンを見上げた。
「…その、気に入りの服が今ずぶ濡れになるところだったように思いますが?申公豹。」
「私の意思で汚すのと他人に汚されるのではわけが違います。」
「もう、地面に落ちただけでそんなに汚れてませんよ。」
ほら、と拾い上げた帽子を楊ゼンはかぶせなおした。
乾いた土の上に落ちた帽子に汚れは見当たらなかったが、どこか不機嫌そうな申公豹の様子に楊ゼンは苦笑した。
「すみません、拗ねないでください。」
「拗ねてません。あと腕が痛かったです。」
「それはそれは…」
申し訳ありません、姫。
そう、まるでキャラ通りの王子様のように、楊ゼンは掴んだ腕にそっと口付けを贈った。
大きく鳴らされたリップ音に、申公豹の顔が火照る。
「っと、ししたのくせに生意気ですっ…!」
「三桁超えたらその概念無くなってきません?」
「無くなりません!!」
眉を吊り上げて申公豹が怒る。
一気に騒がしくなったその光景に、桜も笑う様にざわめくのだった。
楊ゼンと申公豹と夜桜
4月分 ※現代パロ
カフェなんてお洒落なものでもない、昔ながらの喫茶店。
店内のBGMはクラシックでほどほどに話しやすい雰囲気をつくってくれている。
その店の、大きな窓に面したボックス席に、白衣を着た黒髪の男性と白金の髪の青年が向かい合って座っていた。
「…とまぁ、こんな感じなんですよ。」
「へぇ、それはまさにケダモノだ。」
「そうでしょう?普段はめんどくさがりの塊みたいなくせにそんな時だけやる気出すんですから。」
はぁ、と溜息をつく白金の青年の様子に黒髪の男がケタケタと楽しそうに笑う。
笑いごとじゃないです、と眉根を寄せる青年の話を真剣にとり合おうとしないのは、青年が本気で嫌だから愚痴っているわけではないと知っているからである。
「そりゃ困ったねぇ、申公豹くん。」
「…雲中子さん、本気で聞いてないでしょう。」
「そんなことないさ。あ。あー…ほら、噂をすれば、そのケダモノさんがご到着みたいだよ?」
にやけた顔をそのままに、雲中子は大きな窓の向こうを横切る浅葱の髪に視線を流した。
ふわふわと長い髪を揺らして、恐ろしいほどの麗人が駆けてくる。
姿をとらえてほんの数秒。カランカランと慌ただしく鳴ったドアベルと同時にその麗人はボックス席に辿りついた。
「っはぁ、ごめん、遅くなった。っていうか…なんか、最近妙に仲良くない?君たち…。」
切らした息を整えながら、太上老君は金色の目で二人を交互に見る。
その視線に嫉妬やら羨ましさやらが含まれているのを感じとって、雲中子は顔を背けながら笑いに笑った。
もちろん、顔を背けたところで笑っているのが隠せるはずもなかったが。
「雲中子さんは博識で話していて楽しいですよ。こうして愚痴も聞いてくださいますし。」
「いやいや、こっちも楽しませてもらってるから。色々と。」
その色々≠フ中には、申公豹のことが絡むと太上老君が無駄に焦ったり普段からは考えられない俊敏さを発揮したりすることが含まれているのだが、気付いているのは太上老君だけである。
むっと、太上老君の眉根が寄る。
これ以上太上老君を怒らせて雰囲気を悪くさせるのも良くないと思った雲中子は早々に逃げの一手を打つことにした。
「さぁて、そろそろ邪魔ものは退散するかな。昼休憩もそろそろ終わるし…。」
「あ…休み時間にすみませんでした。」
「いーよいーよ、そんなの気にしないで。また誘ってくれたらいつでも来るよ。」
千円札を置いて、雲中子が席を立つ。
それじゃあ楽しんで、と涼しい顔で去ろうとする背中に太上老君が声をかけた。
「雲中子!」
「んー?」
「ここ。」
太上老君が自分の首筋をとんとんと突くと、雲中子はコンマ1秒のスピードで自分の首筋を手で隠した。
涼しげだった顔が、ばっと朱に染まるのをみて、今度は太上老君がにやにやと楽しげに笑った。
「嘘。付いてないから、安心したら?」
「〜〜っの…!」
雲中子は喰ってかかろうとするが、ここで反抗しては相手の思うツボと踵を返した。
去っていく白衣の背を見ながら、申公豹が困惑したように太上老君を見上げた。
「あ、の…?老子、えーっと…その、雲中子さんは…?」
「あれ?聞いてなかったの?あいつにもいるんだよ、彼氏≠ェ。まぁでもあれだけ焦るってことは、思い当たる節があったってことなんだろうねぇ。」
金色の目が意地悪そうに細められる。
申公豹は一拍置いて、静かな店内に驚きの声を響かせるのであった。
雲中子と申公豹と太上老君
5月分 ※もしもシリーズ「猫」
自分はごく普通の大学生活を送っていた。
多少怠け癖がひどく、祖父譲りの口調が珍しくはあったかもしれないが、そんなことは許容範囲内だろう。
しかし帰宅してみればどうだ。そんな平々凡々な日常は一気に崩されてしまった。
見ず知らずの、自分と変わらない位の青年がリビングにつったっているのだ。
しかもただの青年ではない。
例えるなら猫のような、耳と尻尾が生えている。
「なっ、なっ…」
「おや、ここの家主さんですか?お邪魔しております。」
「――誰だおぬしはっ!?」
*****
不法侵入者を指差して声を張り上げた太公望に、男は「まぁ落ち着きなさい」なんて他人事のように言ってきた。
「何でわしの部屋にいる!そしてなぜわしの服を勝手に着ておる!というかなんなのだおぬし!?」
「騒がしい人ですねぇ…とりあえずここに座られてはどうです?」
「ここはわしの部屋だっ!」
「知ってますようるさいですねぇ。」
片眉をひそめた男は、座布団を二枚ひいて片方に太公望を薦め自らも正座した。
こたつの上にはご丁寧に茶まで用意してあって、これではどちらが家主だかわからない。
太公望はまだ冷静さの戻って来ない頭で、とりあえず話を聞かないことには何もわからないと薦められた自分の座布団に腰を下ろした。
夢かと思って、男に見えないように膝頭を抓ってみたが痛いだけであった。
「私の名前は申公豹。ここにいるのはたまたま無用心にも鍵が掛かっていなかったから。身につけるものがなかったので、勝手に箪笥から貴方の服を拝借しました。そして私は見ての通り猫です。」
「は…?」
「先程の質問の答えです。他に質問は?出来れば一問一答式がいいのですが。」
「いや、まてまてまて…っ!まったくわからん!!」
何故分からないのかが分からないというような顔で自称猫は首を傾げた。真っ白い三角耳がひくりと動く。
「そ、そもそもわしの知っている猫とおぬしでは姿がかけ離れておる!話す猫など聞いたこともないぞ!」
「あー…なるほど。あなたの言っているのはネコ科動物の事でしょう。この世界には稀に特別変異で私のようになる猫もいるのです。まぁ猫又のようなものだと思っていただければ分かりやすいのでは?」
「ねこまた…。」
「はい。」
口角をにっと吊りあげて、文字通り猫のような瞳の男は笑った。
器用に茶を啜る動作は人間のそれと変わらない。ただ頭に三角耳と、尻尾がはえていることを除けば。
「ところであなたお名前は?」
「た、太公望。」
「では太公望。」
「いきなり呼び捨てかい…。」
「私、少々探し物をしているのです。見つかるまで宿無しというのも不便ですので、一緒に住んでも良いですよね?」
「なに!?」
「もちろんタダでとは言いません。先程キッチンと冷蔵庫を拝見させていただきましたが、あなた自炊出来ない人ですよね?こう見えても家事は得意ですので、一日三食バランスの良い物を作って差し上げましょう。」
「ぐっ…図星だけに美味しい話だが…!だがこの狭い部屋に男二人が住むのは窮屈だ!」
「ああ、それなら問題ありませんよ。」
ぼふん、と小さな音がして目の前の男は姿を消した。
否、男がいたところに一匹の真白い猫が座っていた。周りには先程まで男が借りていた太公望の服が落ちている。
「にゃあ。『…とまぁ、このように、あなたのよく知っている普通の猫にもなれますので。これなら場所もとらないでしょう。』」
「な…なんだか色んな事が非現実的すぎてもうどうでもよくなってきたわい…。」
猫の声と、副音声で頭に流れてくる人間の言葉に頭を痛めながら、太公望は大きく溜息をついた。
「にゃー。『それでは、交渉成立という事で。』」
「はぁー…まぁ、しばらく様子見といこうかのう。あー…っと…。」
「に。『申公豹』」
「ああそうだった。」
今しがた聞いた名前を口にしながら、太公望は白い頭を撫でるのだった。
猫又申公豹と大学生太公望
6月分 ※現代パロ
子どもの頃から独りで食事を取るのが日常茶飯事だった私は、すっかりながら食べ≠ェ身についてしまっていた。
加えてこの怠け癖だからか、とにかく食べるのが遅い。
分かってはいるけれど、早く食べようと思っても胃が苦しくてそうもいかない。
まぁ今まで別にそれで困ることもなかったわけだけれど、彼と食べるようになってからはちょっとした問題だった。
「ごめんね。」
「…どうして謝るのです?」
見惚れるほど綺麗な箸使いで規則正しく食べ物を口に運んでいた目の前の恋人は、随分前に食べ終わって手元の本に視線を落としていた。
待たせているのが申し訳ない気持ちになって謝ると、不思議そうな声で返事をする。
ちらりと上目に見上げる群青色の瞳に苦笑いをした自分が映っていた。
「いや、暇かなぁって。」
「これを読んでいるので、大丈夫ですよ。」
そう、何でもないように答えてくれるのはありがたいが、やっぱりちょっと悪いなとか思ってしまう。
それからまた黙々と食べる作業に戻るわけだが、スピードが向上するわけでなし。
ああこれが外食でなければ、気まずくないのになぁと小さく溜息をついた。
***
それからまた何度か外でご飯を食べる機会があり、そしてまた今日も外食をしているわけなのだが私はある異変に気がついた。
「…?ねぇ申公豹。」
「はい。」
「なんか今日食べるの遅くない?」
「気のせいです。」
きっぱりと断言して、ほぐした魚の身が綺麗な所作で口元に運ばれる。
その動作に淀みは感じられない。
けれど、やっぱりどこか違和感がある。
不思議に思いながらまた食事を開始する。食べながらもやっぱり気になって申公豹を観察していると、やっと違和感の正体が分かった。
彼は、食べ物を口に運ぶ間隔を開けているのだ。それも、おそらくわざわざ。
きっとこのペースで2人食べ続ければ、同じ時間に食べ終わるであろうというくらいのペースで。
「ふ、ふふっ」
「なんですか突然笑いだして…。きもちわるいですよ。」
「いや、なんだか今すごく、愛されてるなぁって思って。」
「…。何の話ですか。さっぱり分かりませんね。」
そういって、申公豹は不器用に視線を外す。
その頬がほんのり赤く染まっていくのを、私は幸せな気持ちで見るのだった。
食べるの遅い老子とそれにあわせる申公豹
7月分
いきなり高熱を出して倒れる、なんて、こちらの心臓に悪い風邪のひき方をするものだ。
印象的な瞳を隠した瞼にそっと触れて、小さく息を吐いた。
小柄な体は寝台に横になったままピクリとも動かず、眠りの深さを表している。
「薬、煎じとこうかな…」
そうは思うものの、なかなか寝台から離れられない自分がいる。
明らかにこちらの方が眠っている時間が長いので、愛弟子の寝顔を見るのは本当に久しぶりだった。
普段より幾分幼く見えるその表情は微笑ましく、熱で苦しそうでなければもっとよかったのにと思った。
力が抜けて半分開いた唇に、いけないと思いつつも手を伸ばしてしまう。
だって、あんまりにも無防備だ。
口角から下唇をなぞる。
柔らかいそこに多少力を入れても咎める声は聞こえない。
今、そういう事をしている場合じゃないことは分かっているけれど、どうにも美味しそうに見えて仕方がないそこに口付けた。
「ん…」
最初は触れるだけだったキスも、その先の快楽を知ってしまっているから自然と深くなる。
いつもより容易く侵入を許してくれた口腔内も、触れた首筋も、熱で驚くほど熱かった。
離して、繋いで。返答のないキスは少し淋しい気もしたが止められない。
次第に漏れ出した鼻にかかった声に煽られるように夢中になって繋いでいると、絞殺さんばかりの力で咽頭部を掴まれる。
むせて首元を押さえながら目を開けると、随分据わった目をした愛弟子がそこにいた。
「たかだか風邪とはいえ、病人の寝込みを襲うとはいい度胸してますねぇ…っ」
「あ、あは…、ご、ごめん。申公豹。」
「ごめんで済みますかっ…おちおち寝てもいられません!」
怒るのももっともである。
すっかり気分を害してしまった申公豹は、寝返りを打ってそっぽを向いた。
せめてもの誠意に薬を作ってこようと席を立った、その時。
「それに…うつったら、どうするんです…」
布団でくぐもった、尻すぼみの声が届いた。
あんまり可愛らしい内容に、自然に口元がにやけてしまう。
「おや。うつるくらいキスさせてくれるの?」
「っ、すでに十分したでしょうが!!もう、知りませんっ」
少し意地悪しすぎたようで、申公豹は今度は頭まで完全に布団をかぶってしまったのだった。
老子と風邪ひき申公豹
8月分
夕暮れの海は美しい。
波間にきらきらと太陽光が反射して、橙色に溶けていく。
「おーい!おぬしは入らぬのかー?」
少年のような、楽しげな声が申公豹を呼ぶ。
膝まで裾をまくりあげて、波打ち際を駆けていた背中が振り向いた。
影になってあまり表情は見えないが、きっと笑っているのだろう。
「私はあなたのはしゃいでいる姿だけで十分ですよ。」
くすくすと笑いながら、白い砂浜の上に三角座りをした道化師が答えた。
逆光のせいだけではない眩しい光景に群青色の目を細める。
「なんだそれはー、つまらぬのー…っと、ぉわ!?」
「!」
突然、ばしゃんと盛大な音を立てて目の前の身体が海に座り込んだ。
どうやら足を取られたようだ。
申公豹は小さく溜息をつき靴を脱いで裾を上げると、腰までずぶ濡れになった身体に近づいた。
「何をやっているんですか…太公望。」
「足がもつれたのだから仕方ないではないか。それよりおぬし、やっと海に入ったな。」
にっと口を吊り上げて太公望が笑う。
もしやそのためにわざわざ転倒したのでは?とうっかり邪推したが、痛そうに臀部をさする様子にさすがにそれはないかと思い直した。
「…ほら。掴まりなさい。」
申公豹が手を差し出すと、黒曜石の瞳が意外そうにそのグローブに包まれた手を見つめた。
「なんですか、その顔は。」
「いや…珍しい事もあるものだと思ってのう。てっきり自分で立てと言うかと…」
「じゃあ自分で立ちなさいな。」
「わぁ、待て待て!」
手をひっこめたばかりではなくずんずん浜に向かって歩き出そうとする申公豹のマントを、太公望が思いっきり掴んで引きとめた。
当然身体は後方に傾き、バランスを崩す。
「ちょ…――っ!?」
ばしゃ−ん、と本日2度目の水がはじける音がした。
もとより濡れてしまっていた太公望は跳ねあがった水を頭からかぶるはめになり、申公豹は申公豹で腰から下がずぶ濡れになってしまった。
一瞬絶句してしまった太公望だったが、怒りにワナワナと身体を震わせる申公豹をみてこれはヤバいと視線を逸らす。
「〜〜なにするんですかっ!!」
「いや、すまぬ…その、まさかこうなるとは…」
「予測できるでしょう!まったくこれだからあなたは――…ッ」
怒りにまかせていると、今にも触れ合いそうなほど近くに相手の顔が来てしまっていることに気付いて申公豹は息を詰まらせた。
白い頬が夕焼け色を追い越して赤く染まる。
後ろに反ろうとした頭を、太公望が片手でそっと防いだ。
「…逃げたら、また捕まえて海に落としてしまうぞ?」
意地悪そうな言葉とは裏腹にその顔はとても優しく微笑んでいて、申公豹の心臓がどきりと高鳴った。
すぐそこにあるはずなのに、寄せては返す波の音が随分遠くに聞こえる。
「私は2度もあんなまぬけなこけ方はしませんよ。」
そう言って、ゆっくり目を閉じた申公豹の行動を肯定と受け取って、太公望はそのゆるりと弧を描いた小さな唇にキスを贈った。
夕暮れの海と太公望と申公豹
9月分
CLOVERパロ
『白花苜蓿計画(クローバー・リーフ・プロジェクト)』
10年前、政府が国中の魔法が使える子どもたちを試験にかけた。
そして、特に魔法の力が強い子を「三つ葉のクローバー」「四つ葉のクローバー」と名付けて育てた。
国には『魔導師』と呼ばれる特級の超常能力者たちがいたが、三つ葉一人で魔導師の能力を凌いでしまうため彼らは外部と接触のとれない研究所に個々に収容され生きていた。
誰にも興味を持たぬよう。
誰かを愛し、それによって国が傾くことがないように。
「おぬし直々に依頼など、めずらしいこともあるもんだのう。老子。」
太公望が心底驚いた風にそう言うと、目の前の相手が顔を上げた。
浅葱色の髪が揺らめいて、感情の読めない金色の瞳が太公望を射抜く。
「…私だって、本当は君に頼みたいわけじゃないけど。でも今回の依頼は君が適任だと判断されたのだから仕方がない。」
「つれない言い方だのう。そこはお前が適任だ!とだけ伝えてくれればいいものを。それで、用件は?」
「――…運んでほしいものがある。」
異なる種類の5つの鍵を渡されて、太公望は太上老君の指定した場所に向かった。
研究所のような大きな建物がそびえ立っている。
実際中へ入るには、その鍵と声紋照合、ついでに網膜照合まで必要であった。
「ここまで厳重とは、よっぽど大事な物を隠しているのかのう…。」
大理石の床を靴音を鳴らしながら歩く。
天国までいけるドラッグ?最新鋭の兵器?隠してあるものに思いをめぐらせるが、どれにしたって録でもないものに違いないと太公望はため息をついた。
5つ目の扉の鍵穴に鍵を差し込む。ごくりと息をのんで鍵を回すと、鈍くガチャリという音とともに扉が開いた。
「―…、――……」
歌…?
鳥かごのような室内に、目を見張るほど大きな大木が中央に植わっている。
鳥のさえずりに紛れて聞えたのは、鈴の音のように凛とした声が奏でる、どこか寂しいような、切ないような歌だった。
侵入者に気付いて歌が止む。
太公望が声の主を探すより先に、歌を止めた人物が大木から舞い降りた。
ふわりと、まるで羽でも生えているかのように。
先を緩く結った白金の髪が上方から差し込む太陽光に反射してキラキラと光る。
白磁のような白い肌に、繊細なまつ毛。
零れ落ちそうな程大きな瞳を開けば、そこには深海の青。
大よそ浮世人とは思えないその人物は、太公望の手をゆっくりと両の手で握りしめ愛おしそうに目を細めて言った。
「あなたが、連れて行ってくれる人ですか…?」
運び屋太公望と国家機密申公豹
10月分 ※現代パロ
「はい、申公豹。」
「…?ああ、ありがとうございます。」
紅葉も十分に色づいていないのに外は随分寒かった。
勿論家の中も寒かったが、まだ暖房器具を付けるのもどうかという時期で寒がりの申公豹はネックウォーマーやらブランケットやらを引っ張り出して暖を取っている。
基礎体温が低いのか。読書をしながら何度も手を擦っているのが気になって、目の前に暖かいココアを差し出した。
白い湯気が揺れて、甘い匂いが部屋に漂う。
ちらりとマグを一瞥した申公豹はまた本に視線を移した。
5分後、本に区切りがついたのか申公豹は紙をめくる手を止めてようやくマグに手を伸ばす。
カーディガンから少しだけ出した細い指先は白かった。
「…どうしたの?」
「別に。」
マグを取って見つめたまま動かない申公豹に問いかける。
あんまり真剣にココアを睨んでいるものだから目が離せなくなった。
「冷めちゃうよ?」
「いえ、そんなに見つめられているということは何か盛られているのかと思いまして。」
「何も入ってないよ…ひどいなぁ。」
「冗談ですよ。」
色のない声で答えると、申公豹はやっとマグに口付けた。
遠慮がちに傾けられたそれからココアを飲むと、申公豹は小さく肩を強張らせてマグを離した。
そこでようやくピンとくる。
「あのさぁ…申公豹。」
「なんです。」
「もしかして猫舌?」
「…。……。」
口を引き結んだ申公豹は、気まずそうにゆっくりと視線を横に流した。
「そんな、隠さなくても。」
「そんなことでも、あなたに弱みを握られるのはなんだか癪です。」
「かわいい。」
「かわいくないです。」
「冷ましてあげようか。ふーって。」
「いりません…っ」
またマグを睨みつけている申公豹が無性に可愛くて笑ってしまうと、彼は猫のように毛を逆立てて怒るのだった。
付き合い立ての猫舌申公豹と太上老君
11月分
もしもシリーズ「足の不自由な申公豹」その2
申公豹の足が動かなくなってから、一応専門家(というか雲中子)に見せたけど結局原因不明で何もわからなかった。
申公豹曰く足の付け根少しくらい下からの感覚が全くないらしい。もちろん歩けない。
「まぁ…いいんじゃないですか?別に困りませんし。」
結構大ごとだと思うのだけれども本人はこの調子だ。
「逃げるような状況になれば最悪空間転移ができますし、それに黒点虎が運んでくれるでしょう?それにあなただって、世話してくれるんですよね?」
人形みたいに大きな目がじっと私を見上げる。
口を小さく開けて、何も疑っていないような無防備な顔を向けられて私は無意識に頷いていた。
もちろん言われなくても愛弟子の力になるつもりはあったし、拒む理由もなかった。
ただ、人に世話されるなんて彼が心底嫌いそうなことを当の本人から頼まれたのが意外であった。
「…いいの?」
「何がですか。」
「だってキミ、更衣も入浴も排泄も、誰かが介入するってことだよ?」
「誰かじゃありません。」
「え?」
「誰かじゃありません、貴方でしょう?」
だから頼んでるんですよ、と消えそうな声で呟いて申公豹は背を向けてしまった。
あんまり頼りのない背中に、ついつい後ろから抱きしめる。
小さくびくついた身体はそれを振り払うこともなくおとなしく私の腕に収まった。
回した腕にそっと添えられた申公豹の手を見て、ああ、やっぱり足が動かなくなって不安だったんだと知る。
大丈夫だよとささやいて、体温の低い白い頬に宥めるように口づけを送った。
不安を隠す申公豹と太上老君
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