「ねぇねぇ申公豹。」
「なんです?黒点虎。」
「さっき下(人間界)の空を散歩してたんだけどさ、なんか妙に騒がしかったよ。」
人がわらわら居て息が詰まりそう、と黒点虎が続けて言ったのを聞いて、主人はちらりと暦に目をやった。
数字の横には小さくイベント名が書いてある。
「…今日はクリスマス、ですね。」
「クリスマス?あーそういえばそんなイベントあったね。…なんだい、老君はイベントの時はいっつも寝てるんだね。
クリスマスって恋人の祭典みたいなもんなのに、申公豹つまんなくない?」
奥の寝室に目をやりながら、黒点虎は毛並みの良い体を申公豹にすり寄せながら聞いた。
その白い毛をゆるゆると撫でながら、申公豹は僅かに眉を寄せて呟いた。
「別に…老子が起きないからというわけではありませんが、今は猛烈に退屈です。」
真ん中を強調して言う主人に、黒点虎はにやにやと笑って一言漏らした。
「またぁ、素直じゃないねぇ。」
その言葉にかっと頬を赤くした申公豹は、おしゃべりな霊獣の頬(?)を力一杯引っ張った。
それを痛がりながらも黒点虎が内心「こんなことで焦って怒るなんてほんと申公豹っておもしろい」と
思っていることを申公豹は知らない。
気が済むまで引っ張った申公豹は、黒点虎からぱっと手を放し、まだ赤い頬のままで言い放った。
「今から下に行きますっ」
それに驚いたのは黒点虎である。
「えぇっ…あんなとこに行ったら揉みくちゃになっちゃうよ。」
「いいんです、ここに居てもヒマなんですから。それに、」
「それに?」
「楽しいイベントをみすみす逃してどうするのです!」
半ばやけくそのような気もするが、主人の「楽しいことは何が何でも見物する」精神に黒点虎が口を挟めるはずも無く。
粉雪の降る人間界に向かって、黒点虎は駆け出した。
君と手を繋いで見える景色ならきっと
「じゃ、ボクはこの辺に居るから。いってらっしゃい。」
人気の無いところに降り立った黒点虎は、主人を降ろしてからそう声をかけた。
ほんとは一緒に行けたら良いのにね、と呟いた黒点虎の頭を撫でながら申公豹は微笑んだ。
「お土産買ってきますよ。黒点虎の好きそうなものを。」
「ありがと。」
黒点虎と別れて、申公豹は街の中に足を踏み入れた。
夕方を過ぎた時刻の街にはイルミネーションが灯りはじめ、人々で溢れていた。
「黒点虎の言うとおり…すごい人ですね。」
細身のメルトンのコートを翻して、申公豹は人混みに沿って歩き出した。
周りにはグループを作って歩いている女子学生、会社帰りのサラリーマン、仲睦まじいカップル…と様々である。
その中で一人、白金の髪をなびかせて歩く申公豹は相当目立つ。
端正な顔も相まって視線を集めているのだが、本人はそんな事露程にも知らないようだ。
当てもなく歩いていると、申公豹の耳に女の子のおしゃべりが聞こえてきた。
会話の内容を要約すると「○○というデパートの前にあるツリーがすごく綺麗」というものだった。
目的も無く歩くのもどうかと思っていた申公豹はその話に出てくるツリーを見に行こうではないかと勇んだ。
…とはいえ、行き方が全く分からない。
さっきの話をしていた女の子たちについて行けば良かったのだろうが、人混みの中ですっかり見失ってしまった。
申公豹はとりあえず、人通りの多い道から外れて、なんとかしていく手立てを考えようと思案した。
「黒点虎がいれば…上空から探してもらえるのですが…。」
そうは思うものの、申公豹は今歩いてきた道を引き返してまで黒点虎に手伝ってもらおうとは思わなかった。
柱に寄りかかって困っていると、ふいに声がかかった。
「こんなところでどうしたの?」
驚いて顔を上げると、そこには見知らぬ男が立っていた。
30代ぐらいでスーツにコートを羽織っており、一見すると仕事帰りのサラリーマンのように見えた。
眼鏡をかけていて、人の良さそうな笑顔を浮かべている。
「困ってるみたいだったから…もしかして道に迷ったとか?」
変に他人と関わるのは止めようと思っていた申公豹だったが、男があまりに心配そうに尋ねてくるので
ついつい話してしまった。
「えー…と…実は○○というところのツリーが綺麗だと聞いたのですが、行き方が分からなくて…。」
「ああ!そこなら俺も今から行くところだから案内するよ。」
「え…でも…」
人が良さそうといっても、申公豹はこの男をそこまで信用していなかった。
それを変えたのは、次の一言。
「俺、彼女とそこのツリーで待ち合わせしてるんだ。」
そう、楽しそうな笑顔を見せられて、申公豹はすっかり男を信じこんだ。
身なりもきっちりしているし、彼の言うことは嘘ではないのだろう、と。
付いて来て、と男に手招きされ、申公豹は再び人混みの中へと入っていった。
「珍しい髪色だね。もしかしてハーフとか?」
「え、ええ…まぁ…。」
人混みに押されながら、申公豹と道案内役の男が歩いていく。
先の質問にまさか「そもそも人間のOBで道士です」と答えられるはずも無く、曖昧に受け答えを繰り返していると
男は申公豹を舐めるように見始めた。
絹のように細い白金の髪と、同じ色の睫毛に縁取られた群青の瞳、人形のように端正な顔立ちに、
マフラーから覗く首筋は華奢で、それが男の目にどう映ったのかは定かではない。
「おっと、危ない。」
後方から押されてよろけた申公豹の体を男が支えた。
「あ、ありがとうございます…」
「大丈夫?もっとこっちにおいでよ。」
「え。いえ、別にい…」
「いいからいいから、このほうが安全だよ。」
ぐい、と男は申公豹の肩を抱いて己の方へ引き寄せた。
それが男が男にする行為ではないことを流石に申公豹も気付いていたが、彼女がいるといっていたわけだし、
道を案内してもらっているので邪険にも出来ずにいた。
それよりなにより、まさか男の自分が男にちょっかいを出されるわけがないという確信が申公豹の中にはあった。
当の自分がいつも、男である自分の師匠にちょっかいを出されまくっているという事実を忘れきっているようだ。
「こっちから行くと近道なんだよ。」
そう言って、男は申公豹の肩を抱いたままどんどん進んでいく。
器用に路地を抜けていき、大通りに戻るのかと思いきや、その気配は一切ない。
気付けば裏路地のような人気のない所に連れてこられてしまっていた。
「あの…ツリーはもっと街の中心部では?」
ぐんぐん奥へ進んでいく男に、申公豹は眉を顰めて言った。
その言葉に振り返った男は、にっこりと気持ち悪いほど楽しそうに笑っていた。
「ああ…ツリーね、――本当に連れて行くと思ってんの?」
「っつ…!!」
背中が痛い。
申公豹はコンクリートの壁に押し付けられていた。
これくらいの拘束なら振り解けるはずの体術は心得ているはずだったが、着慣れない上着が邪魔をして
思うように動けない。
上着の中の宝貝に手を伸ばしかけたが、生身の人間相手に使えるはずもなかった。
隙を見て何とか逃げないと。
そう考えながら鋭く男を睨みあげる申公豹を、男は愉快そうに見下ろしていた。
「あんまり怖がってくれないんだね。…ちゃんと状況わかってる?」
男が不意に申公豹の顎を掴んだ。
無骨な指が、申公豹の薄紅の唇をなぞる。
次の瞬間、ぐっと男が顔を近づけてきた。
「や…っ!」
逃げ道がなくて、どうしようもなくて、申公豹はぎゅっと目を瞑った。
考えるよりも先に頭の中に浮かんだ名前を呼びたくて堪らなかった。
老子。
――老子!
耳の奥のほうで鈍い音がした。
急に、押さえつけられていた圧迫感が無くなったので、不思議に思って瞑っていた目を開けると、
路地の奥手に男がひっくり返っていた。
それに驚いていると、反対側から聞き慣れた声がした。
「――汚い手で触んないでくれる?…って、もう聞こえてないか。」
慌てて振り向くと、上(仙人界)で寝ているはずの太上老君が片手の拳をさすりながら立っていた。
どうやら男の横顔を思いっきり殴り飛ばしたらしい。
…普段ぐうたらで体の線も細いくせによくもまぁ。
「なんで…」
人間界にいるんだ、と問う声は太上老君に抱きすくめられた所為で消えた。
「大丈夫?もー…変なのに付いて行っちゃダメでしょう?」
むぅ、と頬を膨らませた太上老君が、まだ呆気に取られている申公豹に触れて、すかさず口付けた。
「な、何するんですかいきなり!!」
「消毒。」
「キスされてませんっ!」
「されかけてたじゃない。」
細めた金の目で見つめられて、申公豹は声を詰まらせた。
なんで、そんな非難がましい目で見られないといけないのだ。私の所為じゃないのに。
癇に障って、そう思っていると、ふと変な気分になった。
あれ?相手のこういう態度をなんというのだったろう。
「…老子。もしかして怒ってるんですか?」
そうだ。太上老君は「機嫌が悪い」のだ。
滅多に怒らない人だから、そんな感情があることすら記憶の彼方に飛んでいた。
「老子。」
「…。」
「老子ってば。」
「〜〜怒ってるに決まってるでしょ!君が知らない男に絡まれてる間助けに行けなかったんだから!
結果的に危険な場面は回避できたけど、とにかく自分に腹が立つっ!」
そう、息継ぎもろくにせずに一気に喋った太上老君を、申公豹は呆然として見つめていた。
呼吸を整えた太上老君が、申公豹の手を取って大通りに向かって歩き出す。
いつもより早歩きの太上老君に手を引かれながら、トレンチコートを羽織った背中を申公豹は眺めていた。
ふと、太上老君の背後で聞こえる、押し殺したような笑い声。
振り返ると、申公豹が口を押さえて笑っている。
「なにが可笑しいんだい?」
「いえ…あなたが怒っているのが、ふふっ…珍しくて…」
「そうかなぁ…。」
「ええ、とても。…クスクス。」
「なんだかあんまり笑われると…恥ずかしいんだけど。」
頬を軽く掻いている太上老君の横で、申公豹は相変わらず笑っている。
その笑いの原因が、ただ太上老君が怒ったのが珍しいからだけじゃなくて、自分のことを心配してくれたことや、
危険な目に遭っている所に慌てて駆けつけてくれた嬉しさからだという事実を、申公豹自身気付いていなかったのかもしれない。
「いつ起きたんです?」
「んー?ほんと、ついさっき。」
大通りを人に揉まれながら二人で歩く。
浅葱と白金の髪が並んで歩くのはどう考えても目立つのだが、当の本人たちはおかまいなしだ。
繋いだ手が人波で隠れていただけ、注目は少なくて済んだのかもしれない。
「よく私の場所がわかりましたね。」
「そりゃまぁ…三大仙人だし。君の気は特別だから、すぐわかるよ。」
そう言って微笑む太上老君の足は、迷うことなく道を進んでいく。
そういえば、目的地はどこなんだろうと申公豹は思った。
「どこに向かってるんですか?」
「えーと、なんかのデパートの前にすっごい綺麗なツリーがあるって誰かが言ってたから。」
「え、老子も聞いたんですか。私もそこに行こうとしていて…でも道が分からなくて。どうして老子は知っているのです?」
「へ?わかんなかったからそこらへんの女の子の集団に聞いたら懇切丁寧に教えてくれたけど。」
正しくは、頬を赤くして目を輝かせながら太上老君に見とれつつ懇切丁寧に、である。
本人にその気は全くないのだろうが、人間界で彼の容姿はフル活用されているようだ。
その話を聞いて申公豹は胸の辺りがもやもやしたが、そんな気分は次の瞬間に吹き飛んだ。
目の前には10メートルを優に越える巨大なクリスマスツリーが佇んでいた。
周囲はそのツリーを目立たせるためにあえて闇に覆われていて、ツリーの存在感を一層大きくしている。
「綺麗…」
申公豹が感嘆の声を漏らす。
まさに聖なる夜にふさわしい、豪奢なクリスマスツリーだった。
ツリーを囲むように人が溢れていて、皆面白いほど一様に上を向いている。
ただ太上老君だけは、ツリーを見るのもそこそこに、隣の愛弟子を見て微笑んでいた。
「…嬉しい?」
「ええ、とてもっ」
問う声に、申公豹はこの日一番の笑顔で答えた。
「なら、私も嬉しい。」
そう呟いて目を閉じ、より一層太上老君が微笑む。
いつまでもツリーの方ばかり向いている顔をこちらに向かせてキスをした。
群青の瞳が驚いて見開かれる。
緩いカーブを描く浅葱の髪を引いて、申公豹が抗議した。
「なにやってんですかっ!こ、こんなに人が沢山いるところで…!」
「誰も見てないよ。…皆自分たちのことでいっぱいいっぱいだからね。」
確かに、周りはもうカップルだらけで、他人のことなど眼中にない。
あるのは自分の恋人と目の前のツリーぐらいである。
それでも恥ずかしがりの申公豹には周りが気になって仕様がないらしい。
不意に、太上老君が申公豹の手を引いて歩き出す。
「老、子っ…どこにいくんです?」
「内緒。」
申公豹はわけの分からぬまま連れて行かれ、たどり着いたのは着た道にあった公園だった。
夜の公園は外灯が少ししかなくて暗い。
公園からは建物が邪魔をしてツリーが見えないので、周りには誰も居なかった。
とん、と申公豹の背中が一本の木に当たった。
「なに…」
「誰にも見られてないならいいんでしょう?」
「な!?ち、違っ…!」
そういう問題じゃない!と言う前に唇は塞がれてしまった。
優しすぎて焦れったいほどのキスが降る。
「ぅ…、んんっ…」
雪の舞う気温は寒くてたまらないはずなのに、申公豹の体温は上がるばかりだ。
絡み合う舌の間には銀糸が引かれ、もれる白い息がその間さえ埋める。
群青の瞳を潤ませて、やっと唇が放された頃には申公豹の身体からすっかり力が抜けてしまっていた。
背後の木伝いにずるずるとへたり込む申公豹の身体を支えて、太上老君が口の端を上げて言った。
「風邪を引いたらいけないから、――続きは家でしてあげる。」
腰にくるような声で囁かれて、申公豹は顔を真っ赤にして叫ぶしかなかった。
「ばかっ!!」
聞いた太上老君が、愛弟子のあまりのかわいらしさに声をあげて笑った。
一方、全く帰ってくる気配のない主人を待つ黒点虎はひとつ大きなくしゃみをした。
「あー…寒くなってきちゃった。申公豹…まだかなぁ…。」
この後、なかなか帰ってこない主人を千里眼で覗いた黒点虎が、師弟の砂糖菓子を優に超える甘さを見せ付けられて
吹き出したことは言うまでもない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
…あまりのベタさと甘さに何度キーボードを打つ手を止めかけたか分かりません。
なんだろう、なんか老申書くといっつも予定していた以上に甘くなるんだが…
なぜ?(笑)
なんかクリスマスって言うほどクリスマスムードが出てない気がしますけれど、
とにかく、メリークリスマス!
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