共にいる時間は数えられないほどなのに、すれ違うときは一瞬で。
  ボクらはそれを繰り返しながら、きっと。



   006 これ以上に誰かを想うことはないでしょう





  思い起こしてみれば、あの日のボクはどうかしていたんだ。


  「――でですね太公望が…、黒点虎?ねぇ、聞いてます?」
  「…聞いてるよ。ちゃんと。」


  ぶす、とむくれた声が出ていることらい分かっていた。
  そうすることで機嫌の悪さに気付いてほしかったのだが、申公豹は気付いているのかいないのか、
  それは楽しそうに先日太公望と会ったときの話をし続けている。
  太公望と会っていたことは知っている。だってそこまで連れて行ったのはボクだから。
  でもどんな話をしたのかは知らない。そこにボクはいなかったから。
  「ありがとう、疲れたでしょう、散歩にでもいってらっしゃい」
  そんな風に言われたら、二人きりで話がしたいのだとボクは解釈する。
  だからボクは空を駆けて、駆けて、駆けて。
  ちょうどいいと思った頃に申公豹の元に戻る。
  そして主人を背に乗せてまた家まで空を駆けるのだ。


  …その、ボクと申公豹を引き離す時間が憎らしくて仕方がない。





  「――それで、その約束の日が今日なのです。黒点虎、行きましょう。」


  ふわりと燕尾のマントが揺れる。
  にこ、と微笑んだ群青の瞳に映っているのは確かにボクなのに、申公豹が見つめているのはボク以外の誰かだと思った瞬間、
  ぷつんと何かが音を立てて切れた。


  「…申公豹ってさ。ボクのこと‘便利な道具’ぐらいにしか思ってないんじゃないの?」
  

  「は…?」
  「そりゃそうだよね、霊獣って言ってもさ、ようは乗り物だもんね。」
  「黒点虎…?」


  何言ってるんだろう、ボクは。
  考え無しに言葉がずるずると口から溢れている。


  見てほしいんだ、瞳じゃなくて心からボクのことを。
  また一緒に駆けたいんだよ。誰かとの約束のためじゃなくて、ボクと一緒に駆けてほしい。
  ただそう言いたいだけなのに。


  「速く走る脚もなくて、千里眼も持ってなかったら、ボクのことなんて必要ないんでしょ…っ」
  「いきなりどうしたんです黒点虎…ちゃんと話を……」


  ボクを宥めようと伸ばされた申公豹の手の平が、忌々しいものにしか見えなくて。
  力任せにその腕を振り払ってしまった。


  「――っ…!」


  鋭い獣の爪は申公豹の薄い皮膚を裂いた。
  ぱたぱたと血が滴って、痛いに違いないのに、申公豹は痛みより僕の行動にひどく驚いていたようだった。
  大きな瞳がこちらをじっと見つめていて、僕はどうしようもなくなってしまった。


  「ボクが、いなくなったって…!申公豹…困らないんでしょう…っ?」


  ぎゅっと目を閉じて、震える声で精一杯そう叫んだ後、ボクは勢いで家を飛び出した。
  後ろから申公豹がボクを呼ぶような声が聞こえたけれど、全速力でボクは空に逃げた。


  今は一緒にいたくない。


  ボクは霊獣だ。だから主人に仕えるものだ。
  従者が主人を傷付けて飛び出すなんて、最悪なのは百も承知だ。
  だけどボクは申公豹に、ただの乗り物だなんて思って欲しくない。


  ボクに心を、向けて欲しい。



  ――申公豹は…こんなボクを追いかけてきてくれるだろうか。



    ********



  「……。」


  突然の相棒の家出に、申公豹は酷く驚いて声も出なかった。
  ただぼーっと、裂かれた傷口から血が落ちて床に染みを作るのを見つめていた。


  自分は黒点虎をただの乗り物だなんて思ったことはない。
  何百年も、何千年も、一緒に空を駆けてきた大切な友だちなのだ。


  それなのに、なんで、どうして。


  普通は、霊獣が主人の意に反する行動を取れば怒るのかも知れないが、申公豹には怒りなど湧いてこなかった。
  あるとすれば、今まで当然一緒にいたものが居なくなった喪失感と、寂しさだ。
  いままでずっと一緒にいた。
  誰よりも近くで同じ景色を見てきた。
  それはこれからも変わらないだろうし、変わらないでいてほしい。
  それならば今自分が取る行動は黒点虎を追いかけることなのだろう。
  追いかけて、ちゃんと話をして、抱き締めて、額を撫でて。
  すれ違った思いをもどさなければ。


  黒点虎の行き先は何処だろうかと思考を巡らすと、思い当たる場所は一つしかなくて苦笑した。
  手のひらの裂傷を隠すようにグローブをはめて、今の気分には似合わない晴れた空の下に飛び出した。


  「…結局、私も黒点虎も、困った時やどうしようもない時に頼る相手は一人しかいないんですよねぇ…。」


  クスクスと、口元に手を当てながら苦笑う。
  柔らかい布団か羊毛に埋もれて、今も夢の中にいるであろう自分の師匠を頭に思い浮かべながら、申公豹は広い野原に足を踏み出した。



    ********



  「…寝てる、よね…やっぱり…。」


  自分ではどうしたら良いのかわからなくて、でも申公豹の元にも戻れなくて、ボクは自然と太上老君の家に来てしまっていた。
  寝室に入れば、浅葱の髪をシーツに広げて眠っている太上老君が目に入る。
  寝息も聞こえないほど静かに眠っていて、申公豹が時折心配そうに老君の顔を覗きこんでいたのボクはふ、と思い出した。


  なんでここに来たのかと問われれば、なんとなくとしか答えようがない。
  別に老君にボクの行動を正当化してほしかったわけでもないし、慰めて欲しかったわけでもない。
  申公豹から離れたかったのに、どうして申公豹との思い出が沢山あるここに来ちゃったんだろう。
  会いたくないのに、会いたくてたまらなくて。
  ボクのこと、心配して、追いかけてきて欲しくて。
  …こんな気持ちはなんていうんだろう。


  「はぁ…。」


  深々とため息を吐いて、ボクは老君の眠る寝台の傍らの床に寝っころがった。
  千里眼を開けば、申公豹が今何をしているのか見ることができる。
  けれど、怖くて開けない。
  申公豹はボクの事なんか心配していないかも知れない。
  そっぽをむいた霊獣なんて必要ないと感じて、家で平然としているかもしれない。
  もしそうだったら立ち直れなくなりそうで、開けなかった。


  寝台の横の窓を見上げた。
  さっきまで晴れていた空は、曇天に変わっていた。



    ********



  こんなに歩くのは久しぶりな気がする。


  申公豹はただひたすら野原を歩いていた。どこまで行っても緑、緑、緑。
  ここから太上老君の寝床まで、一体どれくらいかかるのか。


  「はぁ…私は随分黒点虎に…お世話になっていた、ということですね。」


  黒点虎がいたら、すぐに目的地に着けるのに。
  肩で息をしながら、宝貝を発動させるために使う力と運動に使う力は別物なのだな、と申公豹は今更ながらに思った。
  家を出たときには晴れていた空も、夕方に差し掛かれば曇天に変わっている。


  「…今日は野宿ですか。」


  このままのペースで歩いていたら、今日中に太上老君の寝床に着くのは不可能だ。
  こんなだだっ広い所で1人眠るのかと思うと申公豹は寒気がした。
  誰の気配もないところで眠るというのは、仙人界に上がってきてからは一度もしたことが無い。
  道士になってからは必ず誰かが傍にいた。
  でも今はだれもいない。
  気配を感じることも、寝息を聞くことも、身を寄せる事も出来ない。
  それは遥か昔に置いてきたはずの孤独というもので、それが今ひたひたと申公豹に忍び寄ってきていた。


  気持ち悪い…吐き気がする。


  歩いていた足を止めて、座り込んでしまいそうになったとき、申公豹の鼻先に冷たいものが降ってきた。


  「雨……?」


  まずい、と思った申公豹は雨宿りできそうな場所を求めて走り出した。
  始めは大人しかった雨も、5分も立てばどしゃ降りに変わっていた。
  ぬかるむ地面に足を取られそうになりながら、申公豹はなんとか大樹を見つけて駆け込んだ。


  「あー…もう…最悪です。」


  頭の先からつま先まで、水浸しだ。自慢の服も台無しである。
  申公豹は重くなってしまった帽子を手に取り、ぎゅうぅと絞った。
  大樹は優秀な傘の代わりをしてくれているようで、雨粒が少し落ちてくる程度だった。
  ざあぁあと耳鳴りのように雨音が響いている。
  幹に体を預けて、目を閉じる。
  すると、雨音に混じって、何かが聞こえることに気付いた。



  『…て、…助けてっ……』



  「子どもの声…?」


  もう一度、申公豹は耳をそばだてる。


  『助けて…っ…おかあさぁん……』


  やはり子どもの声がする。
  慌てて駆け込んだ所為で気が付かなかったのだが、大樹の後ろには地面が裂けて大きな溝が存在していた。
  どうやら子どもの声は、この溝の中から聞こえてくるようだ。


  申公豹は溝を覗き込んだ。
  3メートル程下の岩の足場に、人間の少女がいた。
  あの岩の足場ではなく、溝の一番底まで落ちていれば少女は死んでいただろう。
  運の強い子だ、と思いながら、申公豹は雨音に掻き消されないように大声で溝の中に声をかけた。


  「怪我はありませんか?」
  「っ…!?…だ、れ…?」


  少女の涙に濡れた目が申公豹をとらえた。


  「私の名は申公豹。道士です。今助けます。」
  「道士さま…?」
  「ええ。今そこまで行きますから待ってなさい。黒点…――あ…。」


  しまった、と申公豹は顔を歪めた。
  今…黒点虎はいないのだ。あの少女のいる所まで、自力で降りるしかない。
  助ける、といった手前置き去りに出来るはずもなく、申公豹は溝をもう一度見下ろした。
  …幸い、足と手を引っ掛けるぐらいのことは出来そうな岩肌だ。
  申公豹はひゅっと息を吸い込んで、溝を下っていった。







  「ふぅ…大丈夫ですか?」


  時間はかかったが、なんとか少女のいる岩場まで辿り着いた申公豹は、少女の顔を覗きこんで話しかけた。
  少女は大きな見開いていた目を震わせて、ぼろぼろと涙を零しながら申公豹の腹部に抱きついた。
  よっぽど怖かったのだろう、小さな手は白くなるほど強く申公豹の服を握り締めていた。


  「ひっく…ひっ……道士さまぁ…あり、がと…っ…」
  「…礼を言うのはまだ早いですよ、これから上まで登らねば何の解決にもなりません。」


  ぽんぽん、と宥めるように、しがみついたままの少女の頭を撫でながら、申公豹はそう言った。
  不安そうに申公豹を見上げた少女の恐怖を少しでも和らげようと、申公豹はうっすらと微笑んだ。


  「大丈夫です。下から私が体を支えていますから、あなたは私の言うとおりに手と足を掛けて登りなさい。」






  雨はまだ弱まる気配はない。
  少女が登りやすいルートをテキパキと指示しながら、申公豹も後を追うように岩肌を登っていた。
  服が水を含んで重くて仕方がない。視界もよくなかった。
  それでも一歩、また一歩と、登り続ける。
  長い時間が掛かって、ようやく少女の手が地上に掛かった。


  「着いた…!!」


  最後の力を振り絞って、少女の体はようやくもとの野原に辿り着いた。
  そこから満面の笑顔で申公豹に手を伸ばす少女に、ほっと胸を撫で下ろした。
  その時。



  「――っ…!?」



  申公豹が足場にしていた岩肌が、崩れた。


  「――道士さまっ…!!」


  あっという間だった。
  少女が登りやすいように、とルートを変更して登っていたために、元いた岩の足場からは随分と逸れて上に登っていた申公豹の体は、
  溝の一番底に叩きつけられた。
  息が止まりそうなほどの衝撃。
  自分でも気付かないうちに防護壁を張っていたのか、体への負担は幾分緩和されているように思える。
  が、しかし――



  「ぁ……」



  不運というものはどうしようもない。
  熱い部分に触れると、触れた手にはべっとりと血が付いている。


  刃のように尖った岩肌の一部が、申公豹の背中から脇腹を貫いていた。






  ――丁度同じ頃、遥か遠く、まだ夢の世界にいる太上老君の白い指が、寝台の上でひくりと小さく跳ねた。











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