それは無垢な微笑み。





   ひょんなことから



  


  何が起こったのか分からない。
  気付けば石造りの部屋の中にいた。
  ランタンが一つだけの其処は薄暗く、空気も良いとはいえなかった。
  理由は分からないがとにかく酷い頭痛がする。頭を抱えるようにしてうずくまっていると、上方から忘れるはずもない声がした。


  「…あなた、一体どうやってここに入ってきたんですか…?」


  テノールより高く、アルトより少し低い。
  少しの声量でも凛と良く通るその声が、今日は少し幼く聞こえた。
  しかし間違えるはずもない、白金の髪と群青の瞳を持つこの声の主の名は。


  「申公豹!」


  張り上げた声に、目の前の人物は驚いて一歩後ずさった。
  白金の髪が動作に合わせて揺れる。


  「おぬしこそこんな所で何、を…?」


  頭痛がやっと治まってきて、わしは顔をあげた。
  そして、思い描いていた人物と、そこにいた人物との違いに目を見張った。


  それは間違い探しのようだった。
  白金の髪、群青の大きな目、人形のような顔、少し低い背、華奢な体躯、それらを構成する物は確かに申公豹である。
  けれど髪は結われていない。肩より上で、切りそろえられている。
  頬に四印もない。白磁のように真っ白だ。
  服装もいたって普通…を通り越して質素で薄汚れている。
  そして何より、纏う雰囲気が全く違う。
  目の前の人物は申公豹の姿と声をした、何か別のモノだった。


  「何を、も何も…ここは私の部屋です。あなたこそ、いきなりどうして…」


  「少年」はわしをみて怪訝な顔をしていた。
  察するにわしはどうやら彼の部屋に突然現れてしまったらしい。
  しかしこれが部屋?
  部屋というより牢獄だ。
  大体おぬしは誰なのだ?あまりにも申公豹に似過ぎている。
  聞きたいことは山ほどあったがまずは状況の確認をする必要がある。
  怪訝な顔のままの少年にとりあえずは自己紹介をした。


  「わしの、名前は太公望という。崑崙山の道士で、木の上で昼寝をしていたのだがバランスを崩して落下した…と思ったのだが目が覚めたらここにいた。だからなぜこんな所にいるのかと聞かれてものう…わしも聞きたいくらいだ。」
  「道士…?」


  その疑問符は言葉の意味が分からないのではなく、純粋に自分を疑っているのだと分かった。
  もしかしたら彼は道士を見たことがないのかもしれない。
  それにまぁ…こんなに変な現れ方をしたら誰だって不審に思うだろう。
  しかしこの状況は不可抗力なのだ。ここにいる理由も分からないのだから。


  「えーと…だなぁ…。その…おぬし、名はなんという?」


  彼はまだ不審な顔でこちらを見ていた。
  ああ本当に、よく似ている。というか、瓜二つだ。申公豹を少し幼くしたらこんな感じなのではないだろうか。


  ――…?申公豹を少し幼くしたら=H


  ぶわ、と鳥肌が立った。
  そうだ、自分が昼寝をしていたのは仙人界。何が起こっても不思議ではないのだ。
  例えば、時空の歪みに、偶然堕ちたとしても。


  「っ、今は、何年何月何日だ!?」
  「は…?」
  「だから時間だ、今のっ」
  「…変な人ですね。今は、」


  彼の口が紡いだ時代に、あんぐりと口を開けることしかできなかった。
  …過去だ。
  とんでもない過去にタイムスリップしてしまっている。
  ということは目の前のこの人物は、正真正銘。


  「…申公豹、なの、か…?」
  「…。あなた、さっきから勘違いをしているようですが…私はそんな名前じゃありません。私の名は  です。」
  「え…?」


  聞こえない。口は確かに動いているのに。


  「ですから、  です。」


  壊れたテープのように、その部分だけ音が飛んでいた。
  ぽっかりと穴が開いたように、名前だけが聞こえない。


  「ちょっと、聞いているのですか?」
  「え?あ、ああ…。」


  どうして聞こえないのだろう。
  考えるだけ不毛な気もした。どちらにせよ申公豹≠ニいう答えは返って来ないだろう。それは道士名だろうから。
  目の前の申公豹は、どうみてもまだただの人間だ。
  しかし便宜上名は必要だ。
  わしはやはり彼のことを申公豹と呼んだ。彼は呆れたような顔をし、まぁなんでもいいですけど、と顔を背けた。


  申公豹の顔を追うついでに、もう一度辺りを見渡す。
  薄暗い部屋にも目が慣れてきた。
  石造りの部屋には小さな高窓がひとつ。灯りはランタンで、部屋の中央におそらく寝台だと思われるものがある。
  他には殆ど何もない。書物が所々に積み重なっているぐらいだろうか。
  後ろを向くと、扉がある。しかしなぜだろう、ノブがない。これでは中から開けられないではないか。


  「おいおぬし…」
  「!――静かに…!」


  部屋の意味を尋ねようと思ったその時、申公豹が突然硬い表情をして、その手でわしの口を押さえた。
 

  「んー!」
  「静かにしてくださいっ…」


  驚いて声を出してしまったわしを、焦った申公豹が胸に閉じ込めた。
  ちょととまて、いくらなんでもこんな体勢で平常心でいられるわけがない。
  これが普通の人なら何でもなかったのかもしれないが、相手は(時代は違えど)自分の想い人なのだから。


  脈打つ心臓の音が騒がしい。
  薄汚れた服を着ているのに、纏う香りは埃臭くもなんともなかった。
  …しかし抱き籠めてくるその腕の、なんと細いことか。
  当たる胸板も薄く、殆ど肉が付いていない。
  申公豹は今だって華奢だが、こんなに痩せてはいない。これは明らかに栄養不足だ。
  そんな事実に胸が苦しくなって、目を閉じた。
  すると今まで気好かなかったが、コツンコツンと靴音がした。
  誰かがこの部屋に向かってきている。
  音からして階段を下りてきているのだろうか?
  ああそうか…ここは「地下室」なのか。


  閉じ込められた胸から何とか顔を出し、わしは扉の方を見る。
  靴音は扉の前でぴたりと止まった。
  コンコン、と扉が2度叩かれる、ギ、と不快な音を立てて20センチほど扉が開く。
  そこから女のものと思われるの細い腕が覗き、食事の乗った盆が部屋の床に置かれた。
  扉はまた不快な音を立てて閉められる。
  足早に階段を駆け上がる音が聞こえ、訪室者は去っていったのだと分かった。


  しばらく扉を見つめていた視線を申公豹に戻すと、何ともいえず苦しそうな顔をしていた。
  それはわしが今まで見たことのない表情だった。
  笑顔で繕うことも、無表情でやり過ごすこともしない。


  「申公豹、」


  控えめに声をかけると、彼はハッとした顔をしてわしを閉じ込めていた腕を離した。
  扉の傍に置かれた食事を一度見て、また視線がこちらに戻ってくる。
  わしが聞きたそうな顔をしていたからなのかどうかは分からないが、申公豹は口を開いた。


  「…。…あれは母です。」
  「は…?」
  「今日の2回目ですから、たぶん昼食でしょうね。ここにいると時間の感覚が分からなくなるので、食事の回数で時間を把握しているんですよ。あの高窓がもう少し大きければ、そんな必要もないのかもしれませんがね。」


  まるで何でもないことのように申公豹は言った。
  随分慣れているようだ。彼はこんな生活を、何年続けているというのだろう。
  …何年も続いてもなお、彼は食事のたびに見えるあの女の腕を、苦しそうな目で見つめ続けているのか。

  
  「…それは、監禁では…ないのか。」
  「――いいえ。」


  躊躇いながらそう尋ねたわしに、申公豹は一片の迷いもない声でそう言った。
  群青色の大きな目が、じっとこちらを見ていた。


  「私は自分からここにいるのです。確かにここに私を閉じ込めたのは母ですが、ここから出ないという選択をしているのは私自身です。」
  「しかしっ、」


  それでは、あんまりではないか。
  申公豹がなぜこんな所に監禁されているのか、その経緯は自分にはわからない。
  わからないが、さっきのやりとりで分かってしまった。



  こやつは、もう一度あの手が自分に差し伸べられるのを、待っているのだと。





  クスクスと、控え目に笑う声がした。
  俯いていた顔をあげると、申公豹が微笑っていた。
  眦を少し下げて、華が綻ぶように。


  「…たいこうぼう、でしたっけ?あなたって、面白い人ですね。」
  「…なぜだ?」
  「だって、初めて会った人間のことをそんな風に気にするなんて。道士というのは博愛主義なのですか?それともそれがあなたの性分ですか?
  ああ、しんこうひょう、という人に私が似ているからでしょうか?あ…すみません、質問ばかりしていますね。人と会話をするのが久しぶりだったものですから…つい…」


  そう言ってまた申公豹は笑った。
  無垢で、儚い、綺麗な笑顔だった。
  それを見るとわしはどうしようもない気持ちになって、細い体を抱きしめた。
  申公豹は少し肩を跳ねあげたが、突き放すことはしなかった。
  本当は、何か言葉を掛けたかった。
  けれど掛ける言葉が見つからなかった。


  「…ふふ、抱きしめられるのなんて、いつぶりでしょうか。」


  くぐもった声で申公豹が呟いた。
  それを聞くとまたどうしようもない気持ちになって、ただただ抱きしめる腕に力を込めた。






  「――っ…!!」


  突然、頭を鈍器で殴られたようなひどい痛みが走った。
  立っていられないほど痛む。ここに堕ちてきた時の痛みによく似ていた。


  「どうしたんです…?大丈夫ですか…?」


  まだ放したくない、まだ一緒にいなければいけない気がするのに。
  身体が崩折れそうだ。
  必死にこじ開けた目で申公豹を見る。
  心配そうにしている顔に手を伸ばす、その腕が透け始めていた。


  ――だめだ、まだ飛ぶな…っ!


  願いを掛けたその腕は、一瞬柔らかい肌に触れてその後は空を裂いた。
  ぐるん、と世界が反転する。
  わしはまた、時空の狭間を落下していった。










  「…ふふ、また…独りになってしまいました…」


  そう、寂しそうに呟く声も、聞けぬまま。



















  次の時空に飛ぶ

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  ということで5周年企画タイムスリップのお題でございますー。
  恋愛要素が少ないので申し訳ないのですが、たまにはこういうのもいいかな…と思いまして。
  過去の申公豹に誰かが会いに行くっていうの、一度やってみたかったんですよね…!
  つまりは自己満ですよね…!知ってた!



   2012/2/17

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