それは絶望の向こうの瞳。






   砂がのぼってゆく砂時計






  どすん、と腰をしたたかに打ち付けて太公望は閉じた目をいっそうつむった。
  体を起こそうと動くと、それを遮るように何かに上から押さえ付けられた。


  「か、はっ…」


  腹部に鈍痛。
  嘔気をこらえて目を開けると腹に相手の膝が容赦無くめり込んでいた。視線を上にあげ、そこにいた人物に驚いて目を見開いた。


  「っ申…う、っぐ」


  白く、細い手が首をにかかる。
  容赦無く締め上げるその手の持ち主は、間違いなく申公豹だった。
  ただ、先程まで話していた申公豹とは明らかに違う点があった。
  まるで物のように太公望を見下ろすその瞳には一切光りがなかった。
  あの、澄んだ群青色の瞳は、深海の底のように暗い。
  しかしなぜだろう。その纏う雰囲気は、格段に自分の良くしっている申公豹に近くなっていた。


  「…。」


  申公豹は口を開かなかった。
  しかし、射抜くような視線から自分を敵だと認識していることは良くわかった。
  酸素さえ通りにくい喉から、必死に声を搾り出す。


  「待、て…っぐ…て…き、ではない!」


  敵ではない、何もしない、お主に危害は加えない!
  ギリギリと締めつける腕を引っ掴んで爪を立てたくなるが、あえてそうはせずにホールドアップ、両手を上げた。
  その動作に申公豹が一瞬目を見張る。
  ふっと首にかかる力が緩み、わしは勢いよく酸素を吸い込んだ。


  「っは、がはっ…けほけほ…」


  顔を横に向けてせき込む。
  もう首に手が伸びてくることはなかったが、申公豹はわしの上に馬乗りになったままだった。
  こんな状況でさえなければ大層嬉しかっただろうに…ってそんなこと考えている場合ではないか。
  苦しさで潤む視界を凝らして、申公豹を見上げる。
  相変わらず昏い瞳がこちらを見下ろしていた。


  今度はいつの時代の申公豹なのだろう?
  周りをざっと見るが先程の牢獄のような部屋ではない。質素な、庵のようだった。
  髪は肩にかかるくらいになっており、時間の経過を感じさせた。
  服は相変わらず薄汚れていて、暮らしは豊かではないようだ。
  部屋の中に他の人間の気配はなく、一人のようだった。


  「…申公豹…?」
  「…。……。」


  ダメもとで名を呼ぶ。
  やはり申公豹は反応を返さなかった。まだ道士ではないようだから、当然か。
  …しかしなんだというのだろう。全く口をきかないのは。


  「声が…?」
  「…。…いいえ。」


  口が利けないのか?と暗に尋ねたわしに申公豹は色のない声で答えた。
  そうして吟味するようにわしの顔と身体を見る。
  ああそういえばこの申公豹には、あの四印が刻まれていた。黒々と、存在感のあるそれが入墨だったのだと、今になって知った。
  それを刻んだのは一体誰なのだろう。今の申公豹の様相には浮き過ぎていて、本人から希望したようには思えない。
  先程会った申公豹の白く滑らかな頬を思い出して、なぜかきしりと胸が軋んだ。



  「…あの村の者ではないようですね…」
  「え?」


  呟くような声でそう言った申公豹は、ゆっくりとわしの上から身体を退けた。
  視線は相変わらずこちらを向いていて、お前は誰なのかと促される。
  自分は崑崙山の道士で――と、本日2回目の自己紹介を同じ相手に行った。


  「道士?」


  そして本日数度目かの不審顔。でもそうとしか説明できないのだから仕方がない。
  この申公豹には過去にわしに会った記憶はないらしいし、誰かさんの受け売りだが流れに身を任せるしかない。


  「…もしかしてあなた、あの浅葱色の髪の仙人の知り合いか何かですか。」
  「へ?」


  浅葱色?自分の知る限りそんな髪色の仙人は一人しか知らない。しかも申公豹に関係があるとすれば間違いはないだろう。


  「老子…太上老君のことか?」
  「ああ…確かそんな名前だったような気もしますが…。何しろ自分から一方的に話して消えたものでして。また来るといってもう何年経つやら分かりません。お知り合いなのならご伝言を。一体何の用だったのか≠ニ。」
  「…よ、用件もなしに来たのか?」


  あのめんどくさがりの塊みたいな仙人が?
  申公豹と太上老君が師弟だということは知っていたが、まさか太上老君から誘いに来ていたとは思わなかった。
  だって、自分から弟子をとりに来るようなタイプにはとても思えないではないか。


  「…ないと思いますよ。私に興味があると、ただそれだけ。」
  「…。」


  …なんとまぁ興味がある≠セと?わしはぽかんと口を開けた。開いた口がふさがらないとはよく言ったものだ。
  世界の動向にすら興味があるのか分からないあの三大仙人の一人が、一人の人間に興味があるなど。
  つまり、それは太上老君にとっては大層ご執心だということだ。
  もや、と言葉に出来ない不快感が溢れる。
  自分が知るよりずっと前から、老子が申公豹に興味を持っていたという事実が気に食わなかった。
  それが嫉妬だと気づいて、頭をがりがりと掻いた。
  自分よりずっと長生きをしている二人に、三桁すら生きていない自分が並べるはずがないのだと分かっていても、気に入らないものは気に入らないのだ。子どもじみた嫉妬だと笑うなら笑えばいい。
  がりがり、とまた頭を掻いた。


  「それで…あなたはなぜここに?」
  「へ?」
  「…。…まさかあなたも用件なしですか…?」


  表情を変えることなく、呆れた様子だけを纏わせた申公豹がそう言った。
  そういえば、自己紹介はしたがここに来た経緯は話してなかったような気がする。
  仙人界で昼寝をしていたらタイムスリップしてしまった、と人間の彼にはぶっ飛んだ話を聞かせた。
  ただ、先程何年か前のおぬしに会ってきた、ということは伏せておいた。
  過去には極力干渉してはいけない。
  未来が歪んでしまうからだ。


  「それはまた…ご苦労なことで。」


  硬い表情のまま、申公豹はやっとわしから視線を外した。
  もっと突っ込まれるかとおもったが、申公豹は興味なさげに台所の方へ歩いて行った。


  「…どうぞ。」


  戻ってきた申公豹の手には湯呑が握られていて、それをことんと机に置いた。
  どうやら気を使ってくれたらしい。


  「あ…ああ、すまぬ。」


  年季のはいったそれに口を付ける。
  口内がジワリと潤って、意外と喉が乾いていたのだと知った。
  茶をすすりながら、申公豹を盗み見る。
  色のない瞳をやや伏せて、所在なさげに立っていた。


  人は、数年でこんなにも変わるものなのだろうか。
  先程あった申公豹はここよりももっと異様な環境にいたが、表情はよく、無邪気とさえいえる笑みを見せていた。
  しかしこの申公豹はどうだろう。笑いもしなければ、喋る以外は口元一つ動かさない。
  それにあの目。
  昏く、見つめられるとこちらの体温まで下がりそうだ。
  それは絶望を通り越した、ただひたすらに哀しい瞳だった。


  「おぬしは、」


  かける声に、申公豹の顔があがる。


  「おぬしは、笑わぬのか…?」


  す、と四印の刻まれた頬に手を伸ばす。触れようとした瞬間、申公豹の目が大きく見開かれた。


  「――ッひ…!?」


  ばしん!とものすごい勢いで手をたたき落とされる。 引きつった声を上げたその顔は真っ青になり、恐怖に歪んでいた。
  荒くなった呼吸は整わず、絞るように申公豹は叫んだ。


  「さ、わら…触らないでください…ッ!」


  驚いたわしは手を引っ込め、それ以上彼を刺激しないように少し後ろに下がった。
  嫌悪というより恐怖が前面に押し出されたその行動に、あの地下室にいた頃から今までの間に何か≠ェあったのだと悟ったけれど、それは聞けそうになかった。
  彼が怯えているからという理由だけではない、また、あの頭痛がし始めていた。


  「わ…私を、放っておいてください、踏み、込んで来ないで…っ、あの仙人も、あなたも…!!」


  歪んだ悲鳴に呼応するように、ずしんずしんと頭痛が強くなる。
  ああ、また言葉もかけられずにこの場を去らないといけないのか。
  ぐるんと反転する視界。
  震える申公豹に手も伸ばせないまま、また時空の狭間を落ちていった。



  「ひとりに…ひとりにしておいてください…もう、大事なものを、失わなくていいように…」


  消えそうな、泣き声。
  けれどその瞳から、涙は落ちなかった。

















  次の時空へ飛ぶ


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  やっと2つ目。どんだけ時間かかってるの…orz
  村を追放されてからの申公豹。感情の起伏が少なく、無表情。
  母親に殺されかけたり黥捏彫られたりと色々だったので他人に触れられるのが苦手です。苦手というか怖い。
  大事なものを失うのがいやだから興味のあるものや大事なものをつくらないっていう…なんて厨二設定…(笑)
  次あたりで老子を出したいところ。
  あ、老子が申公豹の庵を訪ねてきて云々って話は2011年8月分の拍手参照です。興味のある方はどうぞ(゚∀゚)




  2012/7/18

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