それは凍てついた心。





   想いを秘めたあの場所で







  「―――っあ、ぁああ」

  耳に届いたのは先程の続きのような歪んだ悲鳴だった。
  他にも、何かが攻防するような音が断続的にしている。
  さすがに着地にも慣れてきた。
  低い姿勢で両足をつき、閉じた目を開くと鮮やかな浅黄色がふわりと舞った。


  「っ?」
  「老、」

  老子、と放った声は引き倒された椅子の音に掻き消された。
  額に汗をにじませて、必死に老子が押し止めていたのは、白金の髪を振り乱して暴れる申公豹だった。
  いきなり現れたわしの存在と掛けられた声に、老子の注意が一瞬削がれる。
  緩んだ手から擦り抜けた申公豹の爪が、老子の頬の皮膚を薄く裂いた。


  「痛っ…」
  

  顔を歪めて、もう一度老子が暴れる申公豹の手を掴む。
  群青の目は焦点があっておらず、老子の瞳のずっと向こうを見ていた。
  じわ、と裂かれた頬から血がにじみだす。
  それに気づいたのか、申公豹の目が一瞬正気に戻った。
  わしはあまりのことに固まっていた身体を動かして、背後から申公豹を羽交い絞めにした。
  思えばその選択が良くなかったのだ。


  「っ…!?」


  暴れていた体がびくんと跳ねる。
  向かい合った老子は吃驚して目を開き、そして咎めるようにわしを見て言った。


  「っそれじゃダメだ!」
  「?」


  真意を測りきれずに怪訝な顔で老子を見る。
  羽交い絞めにした身体は緊張したまま固まって、驚くほど静かだ。
  何が起こったのか顔を覗き込もうとすると、微動だにしなかった細い身体が、一転かたかたと震えだした。

  「や…あ、ぁ…放し…放して、放してくださ…ごめんなさい助けてお願、おねがいしますごめんなさいごめんなさい…っ!」


  震えた身体が歪んだ悲鳴を上げてまた暴れだす。
  この細い身体のどこにそんな力があるのかという程、束縛を振りほどこうとする力は強かった。
  こちらも力をこめて必死で押さえつけていると、老子が鋭い声で叫んだ。


  「放して、早く!」
  「っしかし、」
  「いいから!」
  「また怪我をするぞ!?」
  「それが何だっていうの、いいから放して!」


  怯えているのが、わからないのか。
  

  言われてハッとした。
  暴れる身体を押さえ込むことに必死で、冷静な頭はどこかに行ってしまっていた。
  腕の力を緩めて、震える後姿を見た。
  揺れる白金の髪の合間に、はらはらと水滴が舞う。
  泣いていることにも気付いていなかった。
  ゆっくりと、腕を放す。
  当然それだけで暴れたからだが収まるはずもなく、飛び出すように逃げた身体は老子に抱きとめられていた。

  「ぅ、っ…たす、助けて、助けてくださ…ごめんなさい、たすけて」
  「大丈夫だよ、大丈夫だから」


  老子の腕に、申公豹の爪が喰い込むのが見えた。
  服越しでもそれはきっと痛みをともなっているに違いなかったが、老子は顔色一つ変えずに申公豹の背を撫でた。
  細い肩が大きく上下している。荒い息が少しづつ落ち着いてきたと思ったら、突然申公豹の身体が崩折れた。


  「申公豹!」


  鋭く叫んで、老子が申公豹の身体を支える。小さく、だが確実に息をしているのをみて老子は安堵の息を吐いた。
  金色の目が伏せられて、長い睫毛が揺れる。
  状況を整理するように長く閉じられた瞼が上がると、もうそこにいるのはいつものように少し眠たげな目をした老子だった。
  じ、っとこちらを見つめる金色に少したじろぐ。


  「…で、君はだれ?」


  こてんと傾げられた首に、そういえば違う時空に来てしまったのだったと思いだした。
  向かいにある窓からは、細い三日月がこちらを見ていた。










  ***




  「ふぅん…時空の狭間に堕ちた、ねぇ…。」
  「おぬし信じておらぬだろう…。」

  
  半目でこちらを見つめてくる老子にわしはがっくりと肩を落としてそう言った。


  あれから、意識を飛ばした申公豹を寝台に横たえた後、わしと老子はリビングで話をしていた。
  簡単な自己紹介とここに来た経緯を話すと、向かいに座る老子は気のない顔と声で冒頭の返事をした。


  「別に信じてないわけじゃないけど。」
  「じゃあもうちょっとそれらしい反応を返してくれると嬉しいのだがのぅ…。」
  「こうやってちゃんと話きいてるじゃない。それになんか君って…」
  「?なんだ?」
  「んー…。なんだかよくわからないけど、なーんか気に入らない。」
  「なんじゃーそれはぁ!!」


  そんな理不尽な理由があってたまるか。
  机を揺らしながら立ち上がっても、老子は素知らぬ顔をしている。大きな欠伸のおまけつきで。


  「ふぁあ。まぁ…聞いたところ大分過去に飛ばされてから今≠ノ少しづつ近づいてきているようだから、もう少し時間がたてばこの時空からも飛ばされて、さらに今≠ノ近づけるか、戻れるんじゃないの?」
  「そうなのか!?」
  「保証はしないけど。」
  「おぬしな…」


  あんまりな物言いにまたがくりと肩を落とす。
  そうしている間に椅子を引く音がして、ひらりと老子の長い袖が舞った。


  「ふぁ…もう、今日は疲れて眠くなったから、休むよ。たいこうぼう、だっけ?ソファでも寝台でも、適当に使ったらいい。」
  「え?」
  「行くところないんでしょう?時空が歪むまで、ここにいたらいい。」
  「…いいのか?」
  「…追い出してほしいの?」
  「ありがたくここに居座らせてイタダキマス。」


  遠慮しようものなら本気で追い出されそうなので図々しく居座ることにした。
  寝室に向かう途中、足を止めた老子がちらりと申公豹の眠る部屋に視線をやった。
  それは愛弟子を案ずる師匠の目であり、保護者の目であり、そしてそれ以外の表現できない何かが混じっている目であった。
  再び歩き出した老子に、控えめに声をかける。


  「…その…、大丈夫、なのか…?」
  「…。別に、今日が初めてじゃない。こんな月の夜は、いつもああなんだ。」


  嫌なことを、思い出すんだろうね、と老子が窓の外を見ながら言った。
  嫌なこと。
  そんな単純な言葉で片づけてしまっていいのだろうか。あの怯え方は尋常ではなかった。
  一つ前の時空で出会った申公豹も、触れると目に見えて分かるほど怯えていたし…。


  「…余計な検索は無用だよ。あの子は話したがらない。だから私も無理に聞き出さない。それだけだ。」


  ギ、と金の眼光が少し鋭くなったような気がして息をのんだ。
  第三者の干渉は許さない、そう、目が言っていた。


  「じゃあ、おやすみ。」


  ぱたん、と寝室の扉がしまる。
  わしはその扉と、申公豹の眠る寝室の方を交互に見てゆっくりと息を吐いた。
  申公豹の様子を見にいきたい気もするが、起こしてしまって怯えさせてしまってはたまらない。
  今日は大人しく休んで、また明日に備えよう。


  ぐるりと部屋を見渡すと、小ぶりのソファが目に留まった。
  ひとまずそこに横になり、目を瞑る。


  ゆっくりと溶けていく思考の中、そういえば、一つの時空で日をまたぐのははじめてだ、とぼんやりと思っていた。













  同じ時空で過ごす


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  ほい、ということで3つめです。タイトルはほぼ関係なくなってきてますね/(^o^)\
  やっと老子が出せました。
  老子が太公望に対してあたりが強いのは、なんとなく申公豹を奪われそうなのを察知してるんだと思います(笑)
  無自覚な嫉妬美味しいです(^q^)





  2012/10/9

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